12月6日(火):女性友達に捧げる(1)
彼女とは今年の1月から交際を始めた。僕たちの関係が順調だったのは、僕の実感では4月の中頃までだった。5月の連休頃から、彼女が不安定になり始めた。感情や感覚の赴くままに行動する傾向に拍車がかかったような感じだった。6月頃、僕たちはもうやっていけないと、僕は思い始めた。それでも、悪化していく関係をなんとか好転させようと、僕も試みてみた。夏ごろ、一時的に関係が回復してきた兆しが見えた。9月頃から、僕は彼女や、彼女の周囲の人たちに対しての反感が強まって行った。そして10月に、僕は耐えられなくなって、彼女と絶縁した。
それからおよそ二か月、僕は彼女と別れて、すごく気持ちが軽くなったのを感じていた。僕はもっと悲しむかと思っていたが、そうはならなかった。僕は自分がとても冷酷な人間なのではないかと思うようになった。
この二か月の間に、二人の関係を振り返ってみたりした。見えてきたものもたくさんある。僕たちはお互いに苦しめ合う関係しか築けなかったと思っている。僕も傷つけられ、痛めつけられたけれど、彼女の方も同じだったろうと思う。それでも僕は彼女を恨んではいない。ただ、彼女には一言、これまでのことを謝っておきたいという気持ちが強まっていった。でも、どうやら、これは果たされることなく終わるだろうと思う。
彼女に対しては何もできなかったと思っている。自分の無力感を覚える。彼女が以前に関係した男たちというのは、ほとんどが暴力的な人だったようだ。それを知っているから、僕は彼女には絶対に暴力を振るったりはしないと決めていた。少なくとも、それだけは守ってきたつもりだった。
彼女は、僕と交際する以前に付き合っていた暴力的男性のことが忘れられないと言う。僕はショックだった。今でも、前の男を愛していると感じているようだ。僕には、それが愛ではないということが薄々理解されていた。それはむしろ憎悪であるはずなのだ。
人間が個人としての自由や権利を奪われた時、生じる感情は憎悪である。自分から奪っていった対象に対する憎悪である。しかし、この憎悪は、それを発散することができない場合、正反対の感情によって覆われてしまうことがある。反動形成と呼ばれる現象である。だから、彼女が「今でも彼を愛している」と述べる時、僕はそれが「今でも彼には無抵抗だ」と述べているに等しいものだと捉えている。
彼女は、相手に対する憎悪に直面することもできなければ、それを処理することもできない。なぜなら、憎悪感情は彼女が自己を保つために役立っているからである。だから、彼女がこの憎悪に直面すれば、きっと彼女の自己同一性が脅かされることになるだろうと、僕は危惧していた。だから、この感情に迂闊に触れることが憚られたのだ。
もし、相手を憎悪していながら、相手に対して抵抗できず、尚且つ、その憎悪を自己の内にて処理できないという場合、その人に生じる感情は自己憐憫である。「こんな自分が可哀そう」という感情である。彼女自身がそれをはっきり意識していたかどうかは不明であるが、彼女が報告してくれた夢にははっきりとそれが見て取れるのである。
そういうことを考えていった時、僕ははっきり悟ったのである。僕は彼女を憎んでいるのではなく、彼女の抱える憎悪を感じ取っていたのだということと、彼女にそういうことをした男たちを僕が憎んでいたということである。でも、当時、僕はそこが十分に見えていなかった。だから、今更ながら、彼女を苦しめたことに対して、僕は謝りたい気持ちになっているのだ。でも、もう遅すぎたのだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)