12月1日(木):12月に入って
今日から12月である。今年もあと一か月である。いろんなことが中途で途絶えていて、それらを終わらせないと一年が終えられないなと考えている。しかし、それをすべてやろうとすると、時間がいくらあっても足りないというところである。
何かをやりかけて、そのままうやむやになってしまったということが最近は増えてきた感じがしている。もちろん、うやむやにするつもりなどなくて、それらは僕の頭の片隅に常に存在し続けているのである。でも、他のことが関わってきて、それらにまで手が回らないというのが現状である。
それらは直接儲けにつながるものではない。ただ、僕自身のためにしようと思っていることばかりである。例えば、原付免許だってそうだ。もう2週間くらい手つかずのまま放置されている。ディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」も続きが気になっていながら、専門書などの方に時間を取られて、そのままになってしまっている。新聞のスクラップもしているけれど、それも数か月分溜め込んでしまっている。いかんことだ。
こうやって溜め込むと、ますます時間が足りないと思われてきて、なんだか追い立てられるような日々を送るようになってしまう。僕の経験では、こうして焦りが生まれて、この焦りが不安へと発展していくものである。最悪の場合は、なるようにしかならんと腹をくくることもできなければならないなと自分では思っているのであるが、それもなかなか難しいなと感じている。
さて、隣の立体駐車場の解体作業が始まった。今日は足場を組んでいる。朝からそれの騒音に悩まされている。ただ、予想していたよりかはましである。それだけが救いである。今回、解体しても、次に何かを建設するとなれば、その時は今以上に騒音に悩まされるのだろう。
考えてみれば、都市というのは、造っては壊しを繰り返しているものである。破壊と創造を常に交互に繰り返す。それによって、町並みは変わり、発展していくものだと思う。人間の心の作業もそれと同じである。古いものは壊され、そこに新しいものが設立される。古いものは常に新しいものへと置き換えられる。そうして発達していくものである。
僕が、自分が生まれ育った京都を好きになれないのは、京都が伝統を重んじすぎるからである。古いものを、そのままの形で残そうとし過ぎるのである。それを伝統だとか歴史だとか言っているのだけど、僕にはそれに大した価値は置いていないのである。古いものを、そのままの形で保存・継承するというのは、常に過去の一時点に留まり続けることである。そこには発展も進歩もないのである。僕から見ると、とても神経症的に見えてしまうのである。
時間は常に流れて行くし、それに伴って変化するところも生じる。僕たちはそれらに対してあまりにも無力である。この無力さを受け入れられれば、自然に生じる変化ということがもっと受け入れやすくなるものである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)