11月27日:発見された原稿

11月27日(日)発見された原稿

 

 今年の6月に、それまで使っていたパソコンが壊れてしまって、いくつものデータが取り出せなくなってしまった。これは僕にとっては非常に痛い出来事である。書きかけの原稿等もすべて取り出せなくなってしまったのである。

 大概のものには諦めがついているのであるが、残念なのは、旧サイト版で載せていた僕の夢の記録である。どういう夢を見たか、すべてパソコンに打ち込んでいたので、それがなくなってしまうというのは、何か財産を失ったような感覚がある。一部は別の媒体に保存してあったので、それは「旧サイト版 夢の旅」に復活させることができた。僕の記憶では、それ以降の夢ももっとあったはずなのである。それらがどんな夢だったか、僕はまったく覚えていないのである。

 しかし、資料を整理していると、新たに二回分発見したので、それは近いうちに公開しようと考えている。

 この発見された原稿をあらためて読み直してみると、見る夢の内容が現在とはかなり違っているなということに気づかされる。おまけに、夢に対する考え方や解釈も今とは全然違うなということにも気づく。僕自身が当時よりも変わっているということなのだろうとは思う。だけど、よく、これだけ面白くない夢記をみなさん読んでくれたものだと思う。

 発見された原稿は、そのままの形で掲載しようとは思っている。でも、できることなら、もう一度解釈しなおしたいのである。当時は自分の夢を解釈することに、抵抗感があった。と言うのは、夢には現実に僕と関わりのある人が登場しているからで、その人たちに対する遠慮みたいなものもあったのである。それに個人的な事柄にも触れざるを得ないからである。

 フロイトやユングは自分の夢を自分で解釈し、それを公表しているのであるが、よくそういうことができるものだと僕は感心するのである。もっとも、フロイトが自分の夢を分析した夢分析には間違いがあるとか、ユングは自分の夢を分析する際に自身の抵抗に気づいていないとかいうような指摘を僕は読んだことがある。それは確かに頷けることである。しかし、自分の夢を自分で解釈し、しかもそれを公表するというのは相当な覚悟を要する作業である。僕にはとてもできない。その真似事のようなことをしているに過ぎない。その分析が間違っていたとしても、なかなかできない行為であるということに変わりはないと僕は思っている。

 クライアントに「夢を見たら報告してください」と僕はお願いすることがある。その時、密かに「この人は夢を持ってくるな」とか「この人は夢を見ませんでしたと報告するな」といったことが何となく分かるものである。と言うのは、心理学を勉強しているようなカウンセラーに自分の見た夢を報告するというのは、場合によっては、相当恐ろしいこととして体験されているものだと思うからである。そのカウンセラーをよほど信頼していない限り、自分の夢は報告できないものだと思う。だから予測がつくのである。

 夢には、その人の内面や体験がもろに現れるものである。夢で見たことは隠しようがないのである。それを報告するように頼んでいる僕は、その罪滅ぼしということも多少はあるけれども、僕自身の見た夢を報告することに決めたのである。だから、僕の夢記は読まれなくてもよいと僕は捉えている。ただ、僕の見た夢を失えたということは、夢を報告してくれたクライアントに対して、なにか申し訳ないような思いに襲われているのだ。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

 

 

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