11月25日(金):残された酒
クライアントからお酒を頂いた。少し前の話である。僕はその頃既にお酒を呑まなくなっていたのだけど、そのクライアントはそれを知らなかったのである。僕は辞退することもしたくなかったので、そのお酒をありがたく頂いた。
そのお酒は、実家の棚に飾ってある。父の知人で晩酌をされる方がおられたので、僕はそのお酒をその人に呑んでもらって欲しいと父に頼んだ。実際、僕自身もその人にはお世話になっており、実はその人から学んだこともたくさんあったので、僕は個人的に恩を感じているのである。だからその人に呑んでもらえたら、僕はそれで良かったのである。
先月、その方は亡くなられた。父は今度その人を訪れる時には酒を持っていくと決めていたそうだが、それは果たせなかったのである。父がその酒を持って行って、「息子もお客さんからこういうものを頂くようになった」と少しばかり息子自慢でもしてくれれば、僕としてはそれ以上のものはないのである。
今、その人に呑んでもらおうと思っていた酒だけが残っている。僕は毎日その酒瓶を見て思う。死とはこういうものかもしれないと。その人は死に、その人に呑んでもらおうと決めていた酒だけが残されたのである。
一人の人の死に、いくつもの果たされることのないままに終わる周囲の人の思いがあるのだろうなと、僕は考えるようになった。本当に死とは残酷である。
最近、クライアントと会うと、僕はホッとする感じを覚える。当たり前のように毎週来てくれているクライアントでも、会えると毎回ホッとするのである。絶望的な状況にあるようなクライアントと、こうして生きてまた会えるということが非常に嬉しいと僕は感じているのである。今日、お会いしたクライアントとも、次回再会できるように、僕もまた生きなければならない。
こうして考えてみると、生きるということも義務であるように思えてくる。決して、楽なものではないなと思えてくるのである。
今日はなんだか湿っぽい話をしてしまったように感じている。このブログを毎日熱心に読んでくれているファンがごく少数ながらおられるのであるが、愉しい話を期待されていた読者はがっかりされたかもしれない。明日は楽しいことを書こうと思います。ただ、約束はできませんが。でも、懲りずに今後とも読んでいただければ幸いである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)