10月22日(土):「奇」
最近の文学は面白くない。僕の個人的な意見である。まあ、最近の文学作品をよく知らないというのもある。本の売り上げランキングなどを見ると、実にくだらないのである。上位10位に入っている中で文学作品はほとんど見当たらない。実用書ならまだしも、たいていはハウ・トゥーの類の本だったり、芸能人の本だったりで占められている。だから興味が湧かないのである。
ところで、関西人は「アホ」と言われても許せるが、「バカ」と言われると怒るらしい。「アホ」と「バカ」でどのような意味の使い分けがなされているのか僕には不明である。しかし、分からないでもない。僕は「変人」だと言われたら気分を害するけれど、「奇人」だと言われるのは嬉しいような気がする。「奇人・変人」は一括りにされてしまうことが多いけれど、僕にとっては両者はまったく違うのである。「変人」は変わり者であるとか、偏った人というイメージがあるが、「奇人」は何かの領域で特殊な人というイメージがある。だから「変人」よりも「奇人」と言われる方が僕は嬉しいのである。それに何よりも、この「奇」という文字がいい。何やら怪しい匂いがプンプンするのである。
本の話にもどると、書店で積まれている本はすべて「話題書」「ベストセラー」の類である。「奇書」などどこにもない。もし、書評で「現代の奇書」などと紹介されていれば、その作家のことは何も知らなくとも、僕は間違いなくその本を購入する。「奇」はどこか僕を惹きつけるのである。
この「奇」ということをどう説明したらよいかで、僕は頭を悩ますのである。これは「荒唐無稽」ということとは違う。荒唐無稽というのは、あくまで外側に起きていることである。それは物語の展開であるとか、その物語の世界の事柄である。「幻想」ということは幾分近いが、それが幻想であるのは、物語の主題においてそう言われていることも少なくないと僕は思う。「幻想小説」はしばしば「ファンタジー」と同義とされる。「奇」は、あくまでもその作品から醸し出される雰囲気のようなものであり、私がその作品によって体験している事柄に関係しているものである。
また、「奇」は「恐怖」を意味するものではない。確かに、「ホラー小説」や「恐怖小説」などと表記されるよりも、「怪奇小説」などと表記されている方が、僕はたまらなくそそられるのであるが、基本的に「奇書」は「恐怖小説」とは限らない。
あと「奇書」は、いわゆる「キワモノ」系や「トンデモ」系の本とも異なるものである。それらは「奇書」になり損ねた本だと僕は捉えている。「奇書」には、その中に極めて高い芸術性がなくてはならないと僕は考えている。読み手の芸術感覚に訴えるものでなければならないと考えている。
夢野久作の『ドグラ・マグラ』は僕にとっては「奇書」である。しかし、あの物語世界は現実的である。舞台のほとんどは精神病院の一室である。あの作品全体に漲る雰囲気が「奇」である。
こういう雰囲気を醸し出す作家は少ないと僕は思っている。もっとも、僕が知っている範囲で物を言っているだけなのではあるが。江戸川乱歩や泉鏡花にはそれを感じる。ポーやラブクラフトにもそれを感じる。
僕の文学論であるが、文学をきちんと習得したわけでもない人間が言っていることなので、適当に読み流してもらえれば結構である。僕の考えに偏りがあるということも自覚しているので、「奇書」の定義が違うとか指摘されても、僕にはどうしようもないのである。実用書しか読まないというような人でも、たまには「奇」の世界に身を置いてみられるのもいいことだと僕は思う。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
あるクライアントさんが、僕の奇人・変人の定義を聞いて、「変人は荒俣宏で奇人は渋沢龍彦ですか」と尋ねてこられた。見事な比喩である。その通りだ。彼の説明の方がもっと分かりやすい。文章に関する才能は彼の方が上だ。もっとも、僕は自分には文才なんて備わっていないと信じているのだけど。
(平成25年8月)