10月23日:清水の舞台

10月23日(日)清水の舞台

 

 京都の清水寺と言えば、その舞台が有名であるが、この舞台が何のために造られたかを知っている人は案外少ない。80年間京都に住み続けていたお年寄りに訊いてみたことがあるけど、その人さえ知らなかったことである。多くの人は、その舞台で催し物や芸能事をするためだろうと思っているようだ。僕もそう思っていた。しかし、そのような使われ方をしたのはもっと後年になってからのことで、本来の目的はそういうものではなかったのである。本来の目的は、空葬のためだったのである。

 空葬というのは、亡くなった人を空に葬るということであり、要するに、あの舞台から亡くなった人を放り投げていたわけである。人々は誰かが亡くなると、その死骸をエッチラオッチラとあの坂道を担いで清水寺まで運ぶわけである。そしてあの舞台から空葬していたのである。京都に大飢饉が発生した時には、空葬した死体がたいへんな高さまで積み上がったそうである。

 全国にはあのような舞台のあるお寺が何軒かあるそうだ。もちろん、その目的はみな同じである。それだけでなく、その舞台の方向まで同じなのである。舞台は南に向いて設置されている。これは、彼岸がその方角にあると考えられているためである。

 よく「清水の舞台から飛び降りるつもりでやります」というように言ったりするが、これは何も高飛び込みをするような気持ちでやるというのではないし、飛び降り自殺をするという意味でもない。清水の舞台から飛び降りるということは、彼岸の方へ旅立つということであり、従って、こちらの世界には戻ってこないつもりでやりますというような意味になるのだろうと思う。死ぬ気でやりますと言うのとは、意味的に通じるものがあるかもしれないけれど、ニュアンスはまったく異なるものだと僕は思う。清水の舞台から飛び降りるというのは、飛び込み自殺をすることとはまったく違うと僕は思っている。こちら側の世界の未練をすべて断ち切って、新たに旅立つような覚悟でやるという感じなのではないかと、僕は個人的に捉えている。

 僕が死んだら、清水の舞台から空葬してくれないかなと、数年前から思っている。空葬などしたら、お寺にも迷惑がかかるし、おそらく数多くの観光客にも多大な迷惑をかけてしまうだろう。「生前からあいつは人様に迷惑ばかりかけおって、死んでからも一大迷惑をかけおったな」などと言われるかもしれない。うーむ、どうやら、叶わぬ夢で終わってしまいそうだ。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

(付記)

 この回のブログはなぜかよく読まれたようである。検索ワードのデータをみると「清水の舞台」で入って来られた方がけっこうおられたのだ。彼らの求めていたものがこのブログにあったかどうか、僕には自信がない。

「清水の舞台から飛び降りる」の解釈は僕の個人的な解釈だ。でも、空葬や南を向いているとかいうことは事実である。京都の清水寺以外に、奈良県に一軒、もう一軒は富山県だったか石川県だったかに、同じような舞台のあるお寺があるそうである。舞台があるのは、あるいは残されているのは、全国でその三軒だけだということも聞いたのだけれど、あまり確信が持てないので書くのを見送った。

(平成25年6月)

 

 

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