10月15日(土):ジグソーパズル
昼休みにジグソーパズルを作るのが日課になった。このパズルはネットの無料ゲームでしている。だからパソコンの画面内で作るのだ。本当はパソコンではなく、一個一個のピースを手に持って、実際に他のピースと合わせて作りたいのだけど、これはとても場所を使うのである。それだけの場所がないので、パソコン画面内で作っている。バラバラのピースが合わさった時というのは、何とも言えない快感がある。
僕が思うところでは、一般的な作り方というのは、まず周囲を作って、それから対象物を作って、最後に背景を作っていくというものだろう。僕はこういう作り方をしない。まず、ピースをざっと一瞥して、これとこれは合いそうだぞというものを合わせてみる。そうして3~5個程度の断片を作るのだ。それをやっていると、小さな島がいくつもできる形になる。小さな島を、今度は合わせて行って、島を大きくしていく。こうして島同士がつながって一つになり、歯抜けの部分が残る。最後にこの歯抜けの部分を埋めていく作業をして、完成させる。どこから作るかということにはこだわらない。この二つは合いそうだと思えば、それが背景の部分であっても作っていく。
今日、ふと、なんでこんな変な作り方をするのだろうと疑問を感じた。一般的な作り方をした方が、より短時間で、よりきれいに作ることができるだろうとは思う。しかし、そういう決まった手順を踏んで作るようになることを避けたいという気持ちもある。ルーティーン化してしまうと面白味がなくなりそうに思う。この絵はこの部分から作ってというように、絵によって変化がある方が面白いと僕は感じるのだ。一つ一つのパズルに個々のルールができてしまうのだけど、その方が変化があって面白いのだ。
僕は最近気づいたことがある。僕はもう少し毎日を規則正しくしようと努めていた。しかし、僕は規則正しくすることに葛藤を感じていた。それもそのはずで、変化があった方が面白いと思っているのだし、それが本心である。規則正しくというのは、僕の頭で考えていることなのだ。これに関して、思い出すことがある。僕の家族は、僕以外はみんなこの規則正しさの中に生きていた。母と兄などは、毎朝何時に起きて、最初にこれをして、次にこれをするというような手順が決まっていて、毎日それを忠実にこなすことができていた。僕にはそれができなかったので、いつも自分がダメな人間のように感じていたものだ。しかし、変化があって、その日その日でルールがある方が、僕にはうまくいくのである。今日はサイト原稿を書く日とか、今日は勉強をする日とかいうように、その日ごとのルールを作って、それに従う方がやりやすいのだ。良し悪しなんて本当はなかったのである。ただ、考え方や姿勢の違いがあるだけである。どちらのやり方も素晴らしいのだと今では思っている。だから、自分にとって上手くいくやり方を放棄する必要はないのだ。自画自賛するわけではないのだけど、毎日変化をつけた方が、より柔軟で創造的だと僕は感じている。
それと、僕のパズルの作り方は、いわば凝集化していくようなプロセスを経ている。この感覚が心地いいのだ。だんだん統一されていく感じがあって気持ちいのだ。これはカウンセリングで体験した感覚と似ていると僕は気づいた。僕の中でバラバラで断片的だった事柄に、つながりが生じ、一つになっていくような感じ、統一されていく感じを、パズルを通して再体験しているようなものだ。もう一度、この統一されていく感じというものが、今の僕は必要としているのかもしれないと思い至った。
ジグソーパズルをどのように作ろうと構わないのである。最終的に絵が完成しさえすればいいのだ。要領が少々悪かろうとも、自分のルールに従っても構わないのだ。なんでこんな簡単なことが分からないでいたのだろう。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
今でもたまにジグソーパズルを作る。今ではさらに作り方が進化して、遂に仕上げることを放棄したのだ。この絵のこの部分を作ってみたいと思ったら、その部分だけを作る。その部分だけ仕上げると、もう満足して、全体を完成させることを放棄する。それでも全然愉しめるのだ。
当時は統一されていく感じが快感だったけれど、近頃は不完全でも許容できるようになっているのかもしれない。
(平成25年6月)