10月13日(木):敵と味方
女性友達と決別してから早くも一週間が経った。思っていたよりも苦しくない。彼女は僕を嫌うかもしれないし、恨むかもしれない。それは構わない。僕は日に日に嫌われることが怖くなくなっていく。そもそも僕を好いてくれるか嫌うかというのは、相手の感情である。相手の感情を自分の思い通りにしようと考えることが間違っている。僕はそう考えるようになった。
嫌われたり敵を作ったりすることが僕は怖かった。今はそれほど怖くない。そもそも一人の人間が何かを言えば、必ずそれに賛成する人と反対する人とが出てくるものである。イエス・キリストやソクラテスでさえ、多くの人に嫌われ、敵対視されていたのである。どんな人であれ、人間は生きている限り敵を作ってしまうものだと思う。
僕のクライアントは三つのグループに分けることができる。Aグループは、僕でなければならないとまで思ってくれているクライアントである。これは全体の3割くらいに当たる。Bグループは別にカウンセラーなら誰でもよいと言う人で、特に僕でなければならないという理由を持たない人である。これが4割くらいに該当するだろう。Cグループは徹底して僕を嫌う人たちである。これも3割くらいに当たるだろう。
僕はこのAグループの人たちのために働きたいと思うし、この人たちに尽くしたいと望んでいる。それはBグループの人も同じであるが、この人たちはカウンセリングに真剣にならない傾向もある。Cグループの人に対しては、僕は縁のなかった人たちだと思って、忘れることにする。
これまでに300人近い人がうちを利用してくれた。ネットに書き込みをするのはCグループの人たちである。全体の3割を占めるということは、90人近い人がそういうことをするだろうということである。僕が、もっと書き込みがあるだろうと予測しているのはそのためである。あのテの書き込みをする人が、少なくとも90人はいるということである。
一方でAグループの人たちも同等数存在しているわけである。彼らは僕を信用してくれて、良い関係を築こうとされた人たちである。僕を好いてくれて、気に入ってくれた人たちである。僕は、遠慮なく言わせてもらうのだが、この人たちのために生きていくことを目指している。
Bグループの人たちというのは、僕に対しても可もなく不可もなくといった感じの人たちである。ある意味で中立的な人たちである。ただ、潜在的にAに入る可能性とCに入る可能性を有している人たちである。彼らがAの方に入ってくれることを僕は望んではいる。
クライアントに限らず、私が10人の人と会えば、その内3人くらいの味方が得られるが、他の3人は敵になるだろう、残りの4人は敵でも味方でもないという距離を取るだろう。何をやっても何を言っても、敵対する人は生まれるものである。黙っていても全員から好かれるとは限らないし、物言わぬが故に敵になる人も現れるだろう。味方の3人とは関係を密にしていくだろうし、敵の3人に対しては、僕は静かに身を引いていくことにする。争うことよりも、関係が無くなることの方が、お互いに穏やかである。
別れた女性友達が僕を恨んだり嫌ったりするのは構わない。むしろ彼女にはそうして欲しいのだ。つき合って分かったことは、彼女には憎悪の担い手があった方がいいのだ。それは本当は健全なことではない。憎悪の対象を必要としないことの方が望ましい。しかし、本人がそこを変えていこうとしないならば、憎悪を担う特定の人物があった方がより安全である。だから、彼女は思う存分に僕を恨んだらいいのである。僕だけを恨んだらいいのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
敵と味方の比率は、これは完全に僕の主観でしかないのだけれど、今でも変わらずにある。人間は敵を作ってもいいのである。誰からも好かれようとしている人は、実は誰一人にも愛されていないということが判明したりもする。そして、これも不思議なことであるが、敵が嫌う部分を味方が好いてくれたりするものだ。
それにしても、女性友達が僕を恨んだらいいというのは、僕の願望だったのだ。今になって分かる。彼女に僕との関係をそうして続けて欲しいという願望の表れだったなと思う。
(平成25年6月)