9月30日(金):出来立て
たまには出来立てのものを公開してみよう。書いて、すぐに公開しようと思う。今、9月30日の15時半である。少し時間が空いたので、取りとめもなく書いてみる。
夕べは仕事を終え、近所の喫茶店で書き物をしていた。専門書から事例を収集するのが僕の趣味の一つで、昨夜は6例ほど書き出した。それから家に帰ったのだけど、帰ったのは23時を過ぎていた。なぜか妙に元気で、家に帰ってからも資料の整理や部屋の片づけをしていた。時計を見ると、朝の5時である。そこから少し寝て、今日出勤している。
金曜日はなぜか暇になることが多く、今日も午前中は予約が入っていなかった。それがあったので少々夜更かししても大丈夫だと思っていたのだ。でも、若干の無理はしてしまったようだ。僕は左足の踝辺りに持病のようなものがあって、そこは骨の形が歪んでいるのである。医者に診てもらったことはある。手術をして骨を削ってもいいのだけど、別に生活に支障は来さないということなので、そのままになっている。無理をした翌日はそこが痛むのである。今日は少々びっこを引きながら歩いている。振り返ると、僕が中学生の頃からこういう痛みを経験していたので、この痛みとも長い付き合いである。
毎日、このブログを公開している。読む人がいるのだろうかと思いながらしている。アクセスがあるのかどうか業者の担当者に連絡をしてみるも、彼は病欠していると言う。読まれているのかどうか不明のままこうして毎日書いている。
公開する時に、コメントやトラックバックを許可するかどうかを選択する。僕にはよく分からない。分からないものには許可を与えないことにしている。最近、それがどういうことなのか分かってきた。コメントとかを許可すると、これを読んだ人が返信してくれるわけである。よく「ブログが炎上した」とかって聞くけど、それはこうした返信が殺到することのようだ。僕のブログは炎上するほど殺到するなんてことはまずないだろう。でも、僕のサイトに他人がとやかく入ってこられるのは気分が悪いのである。それに僕は自分のサイトを見ないので、コメントされても恐らく目に留まらないだろう。読み手はただ読むだけであるし、読み捨てられて構わないと僕は思っている。それに、こういうサイトやブログを通して人と交流を図ろうなどとは、僕は少しも思っていないのだ。
何よりも、本当の理由は、そういうコメント欄を設けると、必ず「毒を吐く」人が現れるだろうということである。誰かを攻撃せずにはいられないとか、誰かを槍玉に上げないといられないといった人たちのことも僕は知っているので、僕のことをよその掲示板なんかで書き込む分には構わないのだけれど、僕のサイトに毒を持ち込まれるのが一番腹立たしいのである。
今後ともコメントは「不可」を通していくつもりである。
このブログのことを、今現在通っておられるクライアントに尋ねてみたところ、三人ほどは「読んでいる」と答えてくれた。そのうち一人は「面白い」とまで言ってくれた。僕としては嬉しい限りである。「面白い」と思って読んでくれる人にだけ読んでもらえれば、僕はそれでいいのである。
「面白い」と思えなかった人に対しては、申し訳ないのですが、僕はこれ以上「面白く」することができなくて、それは僕の能力を超えてしまっているのだ。「もっと面白くせえ」などと無理な要求を出されても僕が困るのである。
また、今日の分を読んで、「ああ、面白かった」と思えて、そして明日には今日読んだブログのことなど忘れてくれれば、それが一番望ましいと僕は思っている。僕の書いたものを経典のようにして読まれるのが、僕は一番困るのである。
今、15時50分。16時には公開されているだろう。出来立ての原稿をお届けします。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
書き終えると、すぐに公開した分だ。これは、それまでの書き溜めておいて、後から公開するというやり方に対する反省の意味もあった。どうも前もって書いておいたのを、日付だけ今日にして公開するということに後ろめたさを感じていたようだ。ちなみに、今はそんな後ろめたさなんてまったく感じなくなってしまっているのだが。
(平成28年11月)