9月22日(木):傘持ち自転車運転
外は雨である。喫茶店でこれを書いているのだけど、店の窓から、傘を手に持って自転車運転している人を何人か見かけた。その姿を見て、冷や冷やする感じを受ける。この感じはどこから来るのだろうかと振り返って見る。
昔はよく自転車に乗ったものだ。片手運転は得意だったように記憶している。手放し運転しながら、ネクタイを締めたりしたこともある。無謀なことをしていたものだ。
高校生の頃、傘を差しながら自転車を走らせていた時のことをふと思い出した。僕はそこでちょっとした事故に遭遇したのだ。当時の通学路には、自転車で走るのに危険な場所と安全な場所とがあった。その安全なはずの通りで事故に遭ったのだ。
事故と言っても大したことではない。危険地帯を無事通過したことで幾分気が緩んでいたのかもしれない。ここからは安全だからと、僕は普通に自転車を転がしていた。そこに自動車が停まっていたのは見えていた。それに自動車が停まっていることは、その通りでは珍しいことではなかった。僕は、そのまま車の横を走り過ぎようとしていた。その瞬間、自動車の運転席のドアが開いたのである。僕は、開いたドアに直撃し、横転した。傘を手に持っていたために、受け身を取ることもなく、横倒しになったのだ。
この事故は、運転席に座っていた人の不注意であったと言えばそれは正しいだろうけれど、油断していた僕にも落ち度はある。車は見えていたけれど、いつもはドアが開いたりしないので、その時もドアが開くなどとは思いもしなかったのだ。運転席に人がいたことすら僕は見えていなかったのだ。幸い、怪我もなく、そのまま通学したけれど、一瞬怖い思いをしたのは事実である。
傘を手に持って自転車を運転している人を見ると、どうもその時の「ドキッ」とした感じを思い出してしまうようである。よくよく考えれば、これまでそれで無事故でやってきたからといって、今日も事故に遭わないという保証はどこにもないのだ。僕は高校生の時にそれを学んだような気がしている。そうなると、だんだん安全な方を採用するようになる。つまり、雨の日は自転車に乗らないということである。
これまで無事故だったからと言って、今日も無事故で過ごせるという保証はない。今まで無事故だったのに、今日に限って事故に遭遇するということもある。と言うか、事故とはそういうものである。僕たちはすべて、将来に関しては、何一つ保証のない世界で生きているものだと思っている。保証がないが故に、僕たちは自分自身を大切にし、注意深くなる必要があると思っているし、保証をやたらと追い求めるよりも、保証のない世界であっても生きていけることの方がはるかに大切で価値のあることだと、僕は思っている。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
たまたま傘持ち運転をしている人を見かけて、そこから体験した感情、高校時代の出来事を思い出している。それ以後の教訓めいたことは余談だったかもしれないけれど、今でもここに記してあることは僕の基本的な考え方だ。今日は無事だったけれど、明日も無事だという保証はない。そういう保証のない世界で僕たちは生きているのだ。そう思うと、生き方や行動がもっと慎重になってくるものだ。
(平成25年6月)