9月17日(土):高槻カウンセリングセンター誕生秘話―3
(職場作りと情報集め)
平成17年の3月末に事務所を借りたのだけど、その年は準備だけでほとんど費やされて、カウンセリングはほとんどできなかった。僕はすべてを一人でやっていかなければならなかった。誰にも頼れず、甘えることは許されなかった。
何もない部屋に一人佇んで、僕はまず床にカーペットを敷こうと決めた。お客さんにはスリッパに履き替えてもらおう、そのためにはスリッパ入れも必要だと思った。机や本棚は新しく買うのではなく、家で使っていたものを持って来ようと決めた。これらは今でも使っているものだ。
今の部屋を見て、本棚の色が違うのは、家から搬入したものと高槻に来てから購入したものとを区別するためだ。色の黒い書架が最初に運んだ分である。
父と母は僕がどういう仕事をするつもりなのかよく分かっていないようだった。それでも父は電話機を、母は置時計を僕にプレゼントしてくれた。この電話機は今でも使っている。置時計の方は壊れて動かなくなってしまった。それでも捨てることができず、止まったまま書架に飾られている。また、荷物の搬入の際に父が車を出してくれて、カーペットを敷く時には両親がわざわざ手伝ってくれた。僕一人ではとてもできなかっただろう。両親は僕のためにいろいろ尽くしてくれたし、僕はそれをとても感謝している。
さて、僕がもっとも頭を悩ませたのが、面接用の椅子と机だった。これはあちこち探しまわった。最終的に全部「無印良品」の品で、僕が自分で組み立てたものだ。椅子はゆったり座れるということと、軽くて移動させるのに骨が折れないということ、それである程度見栄えが良いという点で気に入った。見るからに上等な椅子は初めから除外していた。適度に気軽さがあって、重々しく見えないものが良かった。
一人でやっていくことに不安もあったけれど、こうして徐々に形になっていくのを見ると、僕は少しずつ希望が見えてくるような感じがしたのを覚えている。少しでも前に動くこと、形造っていくということが、僕にとっては、何よりの不安対処法だとその時に思った。
本や資料、その他必要なものを毎日少しずつ運んで、やっと仕事ができる体勢が整った。既に6月になっていたのではないだろうか。
一年目は仕方がないと思っていたけれど、とにかく仕事場はできた。電話もつながる。だけど、うちの番号はまだ電話帳にすら載っていない。とにかく広告を出して、多くの人に認知してもらわなければと思っていた。
ところで、僕が高槻に来て、最初にやったことは、いきつけの飲み屋を作るということだった。とにかく高槻に関する情報を集めようというのがその目的だった。個人でやっているような店で、常連さんがいて、店主や横のつながりができそうな店というのが条件だった。そこで、どうやって常連さんを集めたか、どのような情報誌が有力かなど、いくつかのデータを集めていった。とにかく、仕事をするためには、活用できるものは何でも活用するつもりでいたし、そのためには情報を集めなければならなかったのだ。こうして、僕は動き始めたわけである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
動き始めると、不安が薄れていくというのは、当時学んだものだったのかと思い出す。最初はいろいろ分からないことも多くて、手探りでやっていたんだなと思う。
不安に対する最善の対処策は前に進むということだ。あるいは自分自身を方向づけ、自分を形成していくことに尽きる。それは今でも変わらず僕の中にある思想だ。
(平成25年6月)