9月13日:4つのフェリシ―問題

9月13日(火):4つのフェリシー問題

 

<休日の過ごし方>

 今日は定休日で、職場に出る用事もない。午前中は家に居て、これからブログに何を書いていこうかなあなどと悩んで過ごす。

 午後から、何冊かの本をリュックに詰めて、散歩する。外で、歩きながら、喫茶店や電車の中などでそれらを読む。休日はそんなことをする。本を持って、目的もなく外を歩く。座って本が読めるような場所を発見すると、そこに座って、ただ本を読む。

 今日持ち歩いた本は、パスカル「パンセ」、ドストエフスキー「罪と罰」、アガサ・クリスティー「死の猟犬」、それにカウンセリング関係の本が二冊。どれも再読、再々読のものである。

 

<4つのフェリシー>

 フェリシーの父親は飲んだくれ、母親は精神的に欠陥がある。母親は父親に殺され、父親は終身流刑となる。フェリシーはある夫人に引き取られ、育てられたが、のろまで読み書きも覚束ず、向上させることはできなかった。彼女が22歳の時、神経性の病気から快復した後、彼女に不思議な現象が現れた。4人のフェリシーが現れたのだ。

 フェリシー1は、これまでのフェリシーであり、フランス語はへたくそで、外国語は話せず、ピアノも弾けない。

 フェリシー2はイタリア語もドイツ語もできる。筆跡もフェリシー1とはまったく違ったし、フランス語も流暢に話す。

 フェリシー3は頭もよく、教養もあったが、フェリシー2とは異なり、粗暴であった。

 フェリシー4は「薄ばか」で、信心深く、掴まえ所がない。

 

 今日読んだアガサ・クリスティーの「第四の男」(The  Fourth  Man)という短篇の話である。僕が中学生の時に読んで以来だったから、どんな話だったかも忘れていたけれど、なかなか見事な「多重人格」描写だと思った。今日、読んだものの中で一番印象に残った。推理小説のお約束で結末を明かすわけにはいかないのだけど、少しだけ述べておく。結末が分かっていても、面白く読める作品だと僕は思う。

 フェリシーには、彼女とは全く正反対と言えるアネットという友達がいた。このアネットにはどこか人を支配するようなところがあって、フェリシーをいいなりにさせたり、催眠にかけたりする。そして生への執着が強い人物である。アネットが病死した時、アネットの魂がフェリシーに乗り移り、時々フェリシーを支配するようになるという結末である。

 

 フェリシーにとって、アネットは彼女が生きられなかった側面でもあり、影でもあると僕は思う。だから、アネットからどんなにひどい悪戯をされても、フェリシーはアネットから離れられないのである。アネットがフェリシーを支配していくということは、フェリシーの影の部分がフェリシーを支配していくということでもある。

 では、なぜ4なのか。フェリシーとアネットの2でいいはずである。実は僕はそこが面白いと思った。ジキルとハイドのように、フェリシーとアネットの2つでよかったはずである。でも、フェリシーは4つなのである。

 フェリシー1は本人自身である。フェリシー2はアネットそのものである。しかし、フェリシー3はアネットの別の一面である。そしてアネットの違った一面を補うようにしてフェリシー4が在るように思えてくる。フェリシー4はフェリシー1とはまた違ったフェリシー自身の一面である。ただ、フェリシー4は十分人格化されるほど育っていない、あるいは、強くない存在のようである。

 今日、歩きながら、この「4つのフェリシー問題」を考えていた。僕の推理はこうである。そもそもの初めから、アネットが2だったのだと。アネット1は、優秀で才能があり、いわば善のアネットであり、これは後のフェリシー2である。アネット2は意地悪で生に執着し、いわば悪のアネットで、こちらは後のフェリシー3である。1つのフェリシーの所に、2つのアネットが押し入ってきたものだから、フェリシーの自我はアネットに占有されないようフェリシー4を発達させて対抗しようとした(もしくはバランスを取ろうとした)のではないかと思う。フェリシー4が掴まえ所がない、つまり明確な人格像を有していないということは、それが後から生まれたものであるという可能性を示しているように思う。しかし、フェリシーがいくら2つになって、数の上でアネットと同等になったとしても、アネットの力が強すぎたのだろう。結局、フェリシー4は明確な人格像を獲得し得ないまま終わる。僕はそんな風にこの作品を解釈している

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

(付記)

 何となく書いていたブログだけれど、改めて読み直してみると、けっこう面白いな。書いて、公開して、それきりだった。当時はそんなこと考えていたのかと改めて思い出す。

 クリスティには、時々、ハッとさせられるような短編がある。そういう短編にぶつかると、いい拾い物をしたという感じになるし、いろいろ考えさせられる。

(平成25年6月)

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