11月6日(土):キネマ館~『死霊の盆踊り』
この映画の存在を知ってから20数年。いつか観たいと思っていたものの、その機会に恵まれずに今日まで来た。レンタル店で本作を見つけた時には飛び上がらんばかりに喜んだ。よくぞこの作品を入荷した、とレンタル店を絶賛したくなった。
僕はエド・ウッド(正確にはエドワード・T・ウッド・ジュニア)が好きだ。映画史上サイテーの映画監督という栄冠に輝き、恐らくエド・ウッド以下はいくらでもおるだろうに、未だにそのサイテー記録が破られていないというスゴイ人だ。スピルバーグなんかよりずっと好きだ。
本作はエド・ウッドが直接関わったわけではないけれど、原作と脚本を受け持っているので、エド・ウッド関連映画ということになる。
悪の帝王みたいなのと闇の女王が満月の夜に死霊たちを蘇らせて饗宴を繰り広げると言えば、「ワルプルギスの夜」を題材にしたホラーかと思われそうだけれど、決してそんなふうにしないのがエド・ウッドの素晴らしいところである。さすがエド・ウッドだ、そんなありきたりの発想なんて根こそぎ覆してくれる。
悪の帝王みたいな役回りでホスト役、これをクリスウェルが演じる。インチキ予言みたいなことをやって人気を博し、その後、エド・ウッド・ファミリーに入った(あんまり入りたくないか)という人だ。多分、いいヤツ。
闇の女王の方は黒装束の女性で、おそらくヴァンパイラ辺りがイメージされていたのだろうと思う。エド・ウッドはファミリーを使いたがる。
物語は、ホスト役のクリスウェルの仰々しい前口上から始まり、闇の女王とともに、満月の夜、死霊たちを蘇らせて饗宴を繰り広げるところから始まる。しかし、この饗宴の中身が女(死霊)たちのストリップダンスなのである。女たちの裸踊りを鑑賞しては、「もっとやれ」と一人悦に入るクリスウェル。シュールすぎる。
その頃、ホラー作家のボブは、深夜の墓場はインスピレーションが湧くからと、妻シャーリーを連れて自動車を走らせている。その自動車が事故を起こして、彼らは気を失う。意識を取り戻した時、彼らは饗宴の音を聴く。誰かいるのだろうかとその方に向かう。彼らは饗宴を目の当たりにする。そこを狼男とミイラ男に拉致され、柱に縛られ、ストリップダンスを延々と見せつけられるという拷問のような目に遭う。
ボブは言う。「とんでもない奴らにつかまったぞ」と。ある意味、それは正しい。
さて、饗宴の方は、火の女のダンスに始まり、誘惑の女、黄金の女、ネコ女、奴隷女、フラメンコ女、ヘビ女、花嫁と、次々にダンスが繰り広げられていく。
ダンスのクオリティなんて僕には分からないんだけれど、いろんなタイプの女たちが登場する。先住民の女から、ケバケバしい女、グラマーなのからスリムなのまでそれぞれである。黄金の女はシャーリー役の女優さんで、一人二役使うところが低予算だ。スケルトンダンスを踊る花嫁さんはなかなか美人さんで、おチチをプルプル振るわせて楽しそうに踊っている。ありゃ自分が死霊の役だってことを完全に忘れているな。
延々とそういうダンスシーンが続く。クリスウェルは手下である狼男とミイラ男を呼び寄せ、少し飽きてきたなどと言う。何か新しい趣向のものを、ということであるが、手下たちの言うことは、あと2,3人踊らせましょうとのこと。なんや、そのまま続くんかいなとツッコミを入れる場面だ。
今夜の饗宴のクライマックスはボブたちの処刑である。朝が来る前に闇の女王が彼らを処刑しようとすると、楽しみは後に残しておけとクリスウェルが命じる。朝日を浴びるとクリスウェルも闇の女王も手下どもも死滅してしまうという設定らしい。そうして、ダンスを見ているうちにすっかり朝になっちまって、ボブたちの処刑よりも先にクリスウェルたちが骸骨になってしまうという壮絶なオチだ。
ボブとシャーリーは事故で地面に倒れ、救急隊員に救われる。彼らはそこから一歩も動いていないということだ。あの饗宴は夢だったのか(夢であってほしい)という結末である。
そして、最後に再びホスト役のクリスウェルが登場して映画を締めくくる。この時、クリスウェルの目が泳いでいるのはカンペを読んでいるからである。
ここで本作を鑑賞する際のポイント(僕にとってのという意味だ)を押さえておこう。
まず、映画を観る時、通常はストーリーを追う。それをしてはいけないのである。ストーリーなんか展開しないのである。ストーリーが展開しないということは時間が止まっているに等しいことになるのだが、その時間感覚喪失感を愉しむのである。
また、ストーリーを追わず、人の動きだけを見る。ストリップダンスだけを見る。乳幼児は動くものに注意が奪われる。それが何であるかということは気にならない(分からない)けど、目の前で動いているということに興味を覚え、目で追ったりする。乳幼児に退行した気持ちで見るのがよろしい。
タイトルを見ると、ホラーのようでコメディのようで、そしてホラー系コメディであるかのように思える。いずれでもいい。ホラーのつもりで見たらホラーではなく、ホラーを期待しているのにいつまでもその期待が満たされない。コメディを期待した場合でも同じで、いつまでもコメディにならない。そうしてこの映画を観る動機づけの部分が非常に曖昧になっていく。そうすると、自分は一体いま何をやっているのだろうという自己不確実感に襲われる。この自分が曖昧に感じられてくるトリップ感を愉しむのである。
最後に、「こんな映画を観るくらいなら仕事でもしておいた方が良かった」と、そういう形でやる気を引き出すのである。こんな意味不明の映画に90分も費やすくらいなら、もっと有意義なことやってればよかったと、そうして気持ちを新たにできる。
そして、見る人の映画愛が試されてしまうのだ。映画は何でも見ますとか、映画がすごく好きですと言う人は、その言葉が真実か否かをエド・ウッド作品で試されてしまうのだ。最後まで鑑賞できてはじめて、その言葉の真が証明されるといってもいい。言っておくけれど、最後まで目を開けて鑑賞するのは難しい。僕も途中でウトウトしてしまった。
他にも何かあるかな。ともかく、左脳で見てはいけなくて、右脳で見なければならない作品だというふうに僕は考えている。そして、映画を観たという充実感ではなく、虚脱感を愉しむのが本作の正しい楽しみ方である。
僕は20年以上前に『プラン・ナイン・フロム・アウタースペース』を見たことがある。さすがはエド・ウッドだ。当時のあの感動が蘇ってくるようだった。
エド・ウッドはいいヤツでね、恐怖感を煽るような仰々しいセリフを書いて(その目論見は失敗しているのだけれど)、そうして観客を怖がらせておいて、観客が怖くならないようにしてくれている。ホラーの苦手な僕でも安心して見ることができる。
チープなセット、大根演技、緊迫感のない演出、仰々しいだけのセリフ、安っぽいストリップダンス、エド・ウッド監督作品ではないけれど、エド・ウッドのスピリッツが至る所から感じられる。ああ、クリスウェルになりたい、そんなことまで思わせてくれる。映画ファンを自認する人は忍耐して見るべし。
いやあ、久しぶりに名作(迷作?)を観たぞ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)