12年目コラム86):I先生の教育分析

 

 I先生は僕のスーパーヴァイザー(SV)だった先生だけど、実習後も僕はI先生の面接を受け続ける。ここからは教育分析の色合いが濃くなる。

 教育分析というのは、精神分析家が分析家になっていく前段階として、分析を受けるという経験をすることである。被分析者を経験するということである。僕は個人的には、臨床家にこの経験があるかないかで、大きな差がつくと考えている。教育分析を受けなくても、クライアントの経験をしたことがなくても、臨床家になることは可能であるが、やはり経験者には及ばないと僕は思う。

 

 I先生の最初の印象は、とにかく日本語が丁寧できれいだということだった。その点ではN先生に通じるところがある。H先生はもう少し日常的な言葉で接してくれていたという印象がある。

 言葉の丁寧さというのはとても大事なことである。それによって相手への尊重を伝えることができるように思う。しかし、難点もある。あまり丁寧語で対応されると、距離感を感じてしまうというところに難点がある。すごく遠くにいる相手のように思われてしまうのだ。

 もっとくだけた日常的な言葉の場合だと、親しみやすさが増すわけである。同じ世界に生きる同胞という気持ちが強くなる。僕はそのように体験する。しかし、別の何かで相手への尊重を伝える努力をしなければならない。それは態度であったり、身のこなしであったり、ちょっとした気遣いであったり、である。

 

 何よりも、I先生の声である。僕には大学時代のNさんを思い出させるのだ。彼女もそういう声であり、そういう話し方だった。I先生を通して、僕はNさんを連想する。I先生が僕に面接をしてくれる。一対一での面接だ。その時、僕はI先生と面しているだけでなく、どこかNさんを独り占めしている感覚にも襲われる。

 もちろん、両者を混同することはない。僕にはI先生が見えていて、今この場ではI先生と向き合っているということを自覚している。意識して自覚している部分もあった。ここを混同してしまうと、僕はNさんとの間で経験できなかったことを、I先生で経験しようとしてしまっていただろうと思う。

 こうした現象は、精神分析では転移と呼ばれるのであるが、転移というのは、しっかり意識していないと危険な場合があるということを、この時、しっかり学んだように思う。

 

 I先生の面接は、とにかくクライアントの表現を邪魔しないようにと、控え目に接してくれている感じがした。それがいいと思える時もあれば、物足りないような気持になることもあった。もう少し、何か言葉が欲しいと思う時もある。

 このことはI先生のやり方が悪いとか、そういう意味ではない。その時々における僕のニーズが一定していないからである。話を聴いてほしい時もあれば、何か示唆になるものが欲しい時もあるし、率直に意見を戦わせたいと思う時だってある。

 ここにはある種のジレンマがある。クライアントのその時々のニーズにいかに合わせていくかという問題がある。僕はこれはこれで必要な考察だと思う。一方で、そのニーズが満たされないことによって、改めて自分が何を求めていたかを知ることができるという経験もある。これも大切な経験であるように僕は思う。一方が絶対に正しいとも言えず、どちらも必要なことかもしれないし、僕としては、結論の出せない選択である。

 

 I先生の教育分析を受けていた頃というのは、僕はアルバイトで食いつないでいた時期だった。とにかく忙しい中で通った時もあった。徹夜明けで、1時間半ほどかけてI先生の所に行って、一時間ほどの面接を受ける。そこから1時間半ほどかけて帰り、そこからまた夜勤をするとか、そんなことも結構あったように記憶している。

 I先生の面接料が5000円だった。毎月2万円くらいはI先生の費用で飛んでいく。それでも構わなかった。その分、いくらでも働いて稼げばいいんだと思っていた。振り返ると、カウンセリングの現場からは遠ざかっていたけど、I先生の教育分析を受けているということで、僕はまったくこの世界から離れたとも言えなかったのだ。それによって、かろうじて僕はカウンセリングとつながっていたのだった。

 当時は、なんでこれを続けているのか分からなくなる時があった。特に転移から現実に戻った時にはそういう感情に襲われることがあった。つまり、I先生の中にNさんを見ることがなくなった時である。当然、これは月日が経つにつれて、回数を重ねるに従って、I先生がNさんから明確に区別されていくようになる。それはそれで僕には辛い体験だった。一つの幻想が崩壊する瞬間だった。

 ただ、転移感情から解放されるに従って、僕は現実的にI先生の面接を受けることができるようになったという感覚がある。後から考えて、そこから得たものも大きいと思う。

 

 そうして得た学びを一つ紹介しようと思う。

 ある時、I先生が僕の話を聴いて、涙を流されたことがあった。確かに、僕がその時話したことの中には、悲しい出来事がいくつも含まれていた。僕も泣きたいくらいの気持ちだった。でも、泣くに泣けない状況が僕にはあった。

 従って、僕が泣く代わりに、I先生が泣いてくれたという形になったわけだ。

 もし、僕が感情転移を引きずっていたら、おそらく感激しただろうと思う。つまり、Nさんも一緒に泣いてくれているというように僕には映じたかもしれないわけであり、そうだとすると、僕はとても感激しただろうなということである。

 ところが、その時には、もうI先生の中にNさんを見ることはなくなっていた。僕は先生を先生として見ている。その先生が涙を流しているのを、僕は自然に眺めている。そして、何かが違うという気持ちが僕の中に湧いてきた。

 その時には、それが何であるかということはよく見えなかった。僕の話を聴いて、涙ぐんでいるI先生を見て、何かはっきりしない違和感のようなものが芽生えただけだった。

 後になって、気づくのは、僕は先生泣いてほしいとは望んでいなかったということだった。一緒に泣いてほしいのではないのだ。僕はそれを求めていたのではなかった。むしろ、僕はI先生にはそれをしてほしくなかったのだった。

 人によって考え方があるし、体験の仕方にも違いがある。自分の話を聴いて、臨床家が泣いてくれて、うれしいと感じる人もあるだろう。それが共感だと考える臨床家もいるだろうと思う。それはそれで構わない。ただ、僕はそれに賛成できないというだけなのだ。

 少し場面が異なるけれど、僕はこういう例も見聞したことがある。実習時代だった。よその実習生のことを噂で聞いた。それは、面接室からクライアントが飛び出してきて、その後をカウンセラー実習生が泣きながら「また、来てね」と声をかけていたという情景だった。実際、どんな場面だったかは分からないけど、噂でそういうことがあったというのを僕は耳にした。

 臨床家、カウンセラーが泣いてしまう。これも仕方がない部分もある。カウンセラーも人間なのだ。感情が込み上げてくることだってある。僕も、クライアントの話を聴いていて、何度もホロリとなることはあった。でも、僕は決して泣かない。子供の頃から泣き虫だった僕が、ここでは決して泣かないと、そう決めているのだ。

それは、カウンセラーを泣かしてしまうということが、クライアントにとってどれだけ衝撃的な出来事となるかを僕は学んでいるからである。クライアントからすると、カウンセラーを泣かせてしまうより、怒らせてしまう方がまだましなのである。たとえ、共感からカウンセラーが泣いたとしても、クライアントにはそれが好ましい体験とならない可能性もあるのだ。

もう少し、この辺りの事情を述べた方がよさそうだ。I先生の場面に話を戻そう。僕の話を聴いて、I先生が涙を流した。それが僕には違和感となったのだけど、この違和感の正体は、僕とI先生との関係の質が急激に変わったように僕に体験されたためだったのだと思う。後になって、そう思い至ったのだ。

つまり、一緒に泣いたり、悲しんだり、あるいは一緒に喜んだりっていうのは、大雑把に言うと、それは友達関係なのである。従って、I先生が泣いた時、僕は先生が単なる友達のように思われていたのだ。言い換えると、僕からすると、先生は先生のままで居て欲しかったのに、それが急に先生ではなくなって、友達のような感覚になってしまったのだ。僕は、先生という一つの理想をここで失ったのだった。

いや、それでも大丈夫なはずである。先生は先生であり、時には友達のように一緒に泣いてくれるという関係の在り方でも構わないのである。ただ、僕は急にはその変化に対応できなかったのだ。恐らく、他のクライアントの中にも、これに速やかに対応することが困難だという人もおられるだろうと思う。それは、極端に言えば、今まで見えていた先生が別人になるという体験である。僕の場合、少なくともその場面においては、僕はその体験に対処できなかったのだった。

 

 以前、「臨床心理の日米欧」シリーズでも取り上げたけど、日本人カウンセラーはきちんと言わないところがあると、僕はそのような印象を受けている。

 I先生もいきなり涙を流すから、僕は衝撃を受けるのだ。本当は一緒に泣いてほしくはなかったのだ。でも、先生もやはり人間なのだ。感情が込み上がってきて、それが抑えられない場面だってあるだろう。そこをとやかく言うつもりはない。ただ、感情が込み上げてきたのだったら、そこで一言、「わたし、あなたの話を聴いて、悲しくなってきました」と伝えた方がいいと、僕は思うようになった。それを言ってくれないと、僕は先生に何をしたのかが不明なまま取り残される感じがしてしまうのである。

 

 偉そうなことを言っているけど、僕もそれに成功しているとは言い難い。感情が抑えられなくなった場面なんていくつもある。自分でもまだまだだと思う。

 でも、教育分析の経験は、そうした現場での学びを僕に得させてくれたと思う。だから貴重な体験でもあった。教育分析の経験の有無でカウンセラーに差が出ると言ったけど、それはこういうことである。現場で得た学びがあるカウンセラーと、書物で得た学びしかないカウンセラーとの違いである。

 I先生が引退していなければ、またいつか、僕はI先生の門戸を叩きに行くだろう。いや、むしろ必要とさえ感じている。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

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