12年目コラム(83):アドバンスコース
カウンセリングセンター2年目はアドバンスコースと呼ばれる。
この年、僕は大学を中退し、N先生のところに弟子入りしたのだった。
大学に関しては、Nさんと仲直りできたのが何よりも嬉しかった。彼女は卒業して、実家に戻ることになった。引き止めたい気持ちはあったけど、それをしてはいけないような気持ちもあった。
彼女の卒業式の日、僕は卒業こそしなかったものの、大学に行って、自習室にこもって、ひっそりと彼女の卒業を祝った。家に帰ると、やたらと臨時ニュースなどがやっている。あの地下鉄サリン事件の日だった。
その前に、1月に阪神大震災があったのだった。僕は風邪をひいていた。それでもアルバイトに行った。缶ビールのパックを作っても作っても、すぐに売れてしまい、追いつかない。半分キレた僕は、大量にパックを作って、積み上げておいた。その翌早朝、地震があった。先述のように、僕は高熱を発して、寝ていた。地震が来たのは分かったけど、動くのもしんどかった。枕もとの本棚がゆらゆら揺れて、これに下敷きになって死んでしまうかもなと、どこか冷静に事態を眺めている自分がいた。その日だったか、翌日だったか、アルバイト先に行くと、ビールのパックが全部横倒しになったとかで、それで「誰やこんなに作って積み上げたのは」とお怒りの声が聞こえる。僕は、しれっとして「さあ、誰なんでしょうねえ」と答えておいた。
さて、この年の4月から、アドバンスコースに上がり、N先生の下で働くようになり、バイトもボランティアも大学も、すべて手を引いた。仕事とカウンセリングセンターの二本柱でやっていった。
アドバンスコースというのは土曜日だった。基礎コース時代からの友達もいれば、別れた人もあり、新たに出会った人もあり、なにかと流動的だった。
どういういきさつがあったのか覚えていないが、僕たちは小さなグループを作った。僕が人の輪に入ることは珍しいことだった。もう、この時代に知り合った人とは、無縁になってしまったけど、当時はとても有意義な人間関係を経験させてもらった。
Aさんという女性がいて、僕はこの人が好きだった。僕から見ると、とても寂しそうな女性だった。だから、彼女を僕たちの輪に入れようと思って、誘ってみたのだけれど、やはり断られた。Aさんもどうしているかな。その後の研修では一緒になったこともあったけど、実習では会わなかった。最後まで続けたろうか。
この年、阪神大震災に地下鉄サリン事件、PTSDの流行、そしてスクールカウンセラーの設置と、カウンセリング業界において、カウンセリングバブルの開始となった年である。
前年、前日に申し込んで間に合った基礎コースも、すぐに定員に達し、なかなか入れないという妙な事態になっていった。
ボランティアで震災のカウンセリングをしないかと誘われたこともある。僕は断った。生活のままならない人たちの中に部外者が入り込んで、カウンセリングしますよなんて言っても、みんな「それどころじゃない」って言うだろう。被災者にとっては、衣食住の確保が先だ。カウンセリングはその後のことになる。それにPTSD対策としては遅すぎるのだ。そして、生活が回復して、喪失に向き合い始めた頃にカウンセリングが必要とされるのに、その頃にはボランティアも引き上げているっていう状態になるだろうと思った。カウンセリングが必要だというのも頷けるし、被災者に施そうという熱意も感じられるのだけれど、何事もタイミングというものがあるものだ。
N先生の下で、働くことになった。ここのクリニックには、N先生とF先生という二人の臨床家がいた。僕から見ると、F先生は臨床家としてはあまりいいことはなかった。ああいう人だとは思わなかった。
ある時、F先生に呼ばれた。F先生は引き出しからノートを取り出し、これだけ勉強したのよ、あなたも頑張りなさいというようなことを言った。はっきり言って、僕がカウンセリングセンターで書き取ったノートの方が多かった。でも、そんな野暮なことは言わずに大人しくしておいた。
それくらいのことは気にしないのだけど、このF先生はとにかくキツイのである。厳しいところがあるのだ。N先生は、そんなF先生とも上手に付き合いなさいと僕に言った。最初はその言いつけを守ろうとした。しかし、ダメだった。僕はF先生をまったく信用できなくなった。それに、F先生は「人格障害」レベルの問題を引きずっているのに、それに気付いていないようだった。引きずるのはまだいい。そこに気付いているかどうかなのだけれど、F先生の言動を見ていると、その「病理」に動かされているだけと思われることがいくつもあった。基本的に、あの先生は反省をしないし、クライアントに対する無関心さもあった。まあ、それはF先生の話だから、脇に置いておこう。
仕事の方は、緊張ばかりしていたし、分からないことだらけだった。多くの失敗もしたけど、6月頃には受付もかなり上手になっていた。けっこう、予約を取ったのだ。秋ごろには、F先生と摩擦が生じるようになっていった。
F先生は、僕が土曜日にカウンセリングセンターに通っているのを快く思っていなかった。この土曜日の件に関して、N先生とは話がついていたことなのだ。F先生は、土曜日も働いてくれないかとか、センターを休んでとか、そんなことを頼まれた記憶がある。僕はお断りした。何とかして僕を止めさせようという無意識的意図がF先生の中にあったのかもしれない。
F先生も一応僕の上司ということになるのだけど、上司の頼みをこうもあっさり断る僕も問題児なのである。僕には僕の計画があるし、僕の人生ってものもある。たとえ上司であれ、雇い主であれ、それの変更を強制するなんてできないことだ。
アドバンスコースの時代は、何かとクリニックの思い出と結びついている。講義で新しいことを学ぶ。学んだことが実践ですぐに適用できるなんて、素晴らしいだろうなと思う。でも、クリニックに行くと、とてもそんな実践なんて出来る環境じゃない。一応、現場で働いているのに、思いのままにならないことがもどかしかった。
このアドバンスコースには、6時間授業の日がある。午後から晩まで6時間の講義である。その間に夕食時間がある。この夕食時間が密かな楽しみだった。友達と一緒にご飯を食べに行くこともあったし、時には独りで食べることもあった。
それで、6時間講義の時であろうと3時間講義の時であろうと、終わると、梅田駅でちょこっと一杯引っ掛けて帰るのが、毎回のお決まりパターンとなった。あの頃、梅田駅周辺の飲食街の雰囲気が妙に好きだった。講義を受け、知人や友達と会い、最後は独りになって、その余韻に浸る。しっかり余韻に浸ったら、帰宅というパターンだった。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)