12年目コラム(78):カウンセラーへの道(1)

 

 このコラムも中断したままだった。言い訳になるんだけれど、この間に足のケガなんかもあったし、動画広告だの書籍のことだのが割り込んできたので、いつしか後回しになり、そのまま意識から自然消滅の形となってしまった。まったく忘れていたわけではないのだど、何ら進展させることなく、ズルズルと時間だけが経過してしまった。

 当初の予定では、僕の学問的な考えから、この12年間の世相のことなんかを取り上げて、最後に僕がカウンセラーになるまでのこと、ならびに、カウンセラーになってからの変遷を綴って、このコラムは終了することになっていた。それで12年目の区切りをつけるつもりであった。

 世相編までは書いてきた。もっとも、世相編に関してはもっと多彩な話題を考えていたのだけれど、もうそれは断念することにした。次のステップに移ろうと思う。僕がカウンセラーになるまでの道程を書こうと思う。

 しかしながら、これを書くことは非常に困難であることも自覚している。と言うのは、過去の様々な経験が僕がカウンセラーになることに一役買っているからである。ホント、生まれてからのことをずっと綴らなければならなくなるのだ。でも、さすがにそこまではできない。だから、カウンセラーになるまでの過程はその多くを省くことになるだろうと思う。本当に大切なことだけを記すことにしようと思う。

 さて、僕がどうしてカウンセラーになったのかを尋ねられることがある。クライアントからも質問されるし、営業に来た人などからもそうした質問を受ける。この質問は僕を非常に困らせるのである。僕がなぜカウンセラーになったのか、僕なりに理由とか背景とかはあるのだけれど、それは簡単に言えるものではないのだ。だからどう答えていいのやら、僕は困ってしまうのである。

 今後、そういう質問をする人に対して、このサイトのこのコラムを読んでくれと答えることができたら僕も困らないだろうし、質問を投げかけた人たちに対しての返答になるような内容にしたいと思う。

 実に様々な経験が今の僕を形成している。そのすべてを網羅するなんてことは不可能だ。仮に可能だったとしても、そのためには多くの文章を積み重ねていかなければならなくなる。読む人にとってもそれは煩雑な作業になるだろうと思う。そのため、僕が18歳になって心理学に出会うまでのことは駆け足で述べたいと思う。本当に重要だと思うことだけを、少しだけ詳しく、綴ることにしたいと思う。

 心理学と出会ってからは、主に心理学に焦点を絞りながら、ある程度細かく見ていきたいと考えている。

 カウンセラーになってから以降のことは、カウンセラーとして何が変わったか、どのように変遷してきたかといったテーマに絞りたいと思う。

 そういう計画を立てているけれど、果たして計画通りに進行するかどうかは確信が持てない。とにかく、綴っていこう。

 

(誕生時の家庭状況)

 僕の歴史は僕の誕生から始まる。寺戸家の次男坊として僕は生まれた。昭和46年のことだ。両親と、それに3歳半上の兄がいる。

 僕が生まれた頃には、まだ祖母という人がいた。僕が2歳になるまでに亡くなったので、僕は祖母という人を知らない。記憶にまったくない。

 比較するのも愚かしいことであるが、その点、兄とは状況がかなり違う。兄は両親に加えて祖母にも面倒をみてもらっている。もっとも、祖母という人には厳しいところがあったようで、兄はあまりありがたがっていないような、何かそういう話を聞いた記憶が僕にはある。それでも、両親を、いわば、独占していた時代があるわけだ。

 第2子が生まれると、第1子が退行するとはよく言われることだ。親の愛情が下の子に奪われたような経験をするそうだ。僕はそれを経験したことがないのでわからないのだけど、それは第1子にすれば不幸なことかもしれない。でも、第2子が生まれるまで、第1子は親の愛情を独り占めできていたのである。第2子はそれを経験することがないのである。

 僕の中では、僕と親との間には常に兄が君臨していたという感覚がある。もちろん、現実にはそんなことはなかっただろうということは分かるのだけれど、僕の感覚と言うか記憶に残っているところでは、常に兄が介在していたように思う。親は常に手の届かない存在のように思えていた。

 この感覚は今でも生きている。僕のカウンセリングは必ず一対一で行う。かつては夫婦同席の面接とか、家族並びに少人数のグループを相手にカウンセリングをしたこともあるけれど、僕はもうそれを止めることにした。もちろん、夫婦カウンセリングや家族療法、グループワークなどを否定するつもりはない。それらはセラピーとしては有効である。ただ、僕はそれをしたくないというだけのことだ。それをすることはどこか僕が僕自身から遊離してしまう感覚が生まれるのだ。

 自分がそうだったからという単純な理由がほとんどなんだけど、カウンセラーは一定時間だけでもクライアントに独占させるのがいいと僕は考えている。他者を独り占めできなかった経験を持つ人もきっと多いに違いないと僕は思う。その人たちにその経験をする機会を与えたい気持ちになる。もっとも、独占させるのはその時間内だけのことである。それ以上の独占は禁じなければならないのだけれど。

 独占とか独り占めっていうのは言葉が過ぎるだろうか。要するにこれは「二者関係」を言っているのである。第三者が割り込むことのない二者関係であり、安心して留まれる二者関係のことを僕は言っているのだ。ウィニコットが一人になれる能力に関して述べているように、二者関係をしっかり経験し、その経験がしっかり内在化されて根付いていないと、その人は孤独に苦しむことになる。かなり単純化した記述をしたけれど、そういうことなのである。僕もそういう経験が僕を救ってくれたように思うので、僕は自分の原点に戻って、カウンセリングに第三者が介入することを一切拒むようになったのだ。徹底して二者関係をクライアントに提供したいと思うようになったのである。

 

 さて、綴り始めて早くも話が脱線してしまったので、話を元に戻そう。

 僕が誕生したころ、どうも父の仕事が不安定であったようである。母が一家を支えていたといった時期があったようである。そういう時期に僕が生まれたようだ。その上、母に代わって面倒をみてくれそうな人、つまり祖母であるが、その人も間もなく亡くなってしまう。僕のために両親はかなり困ったんじゃないかと僕は思うのだ。家族が変動する時代に僕が生まれてしまったように、僕は感じている。

 生まれてきたことが申し訳ない。その当時、今のように言葉が話せていたら、僕はそう言っていたかもしれない。そして、その感情はその後も残り続ける。僕の中に根強く残っている厭世感情である。この厭世感情は後々の記述にも繰り返し登場するだろうと思う。

 兄が生まれた時の状況を僕は知らない。比較することも今では全くない。僕の状況よりも恵まれていた部分もあるだろうし、僕の方が恵まれていた部分だってあるだろう。ただ、生まれた時の状況は、同じ両親から生まれた兄弟とは言え、まったく違っているものだと思う。

 実存哲学は人間を状況に投げ出された存在と見る。こういう人間観に僕が共鳴できるのも、自分では当然だと思っている。兄が生まれ落ちた世界と僕が生まれ落ちた世界とはまったく違うのだ。そして、僕は僕の生まれ落ちた世界で生きることを余儀なくされる。いくら望んでも、僕は兄の生きている世界で生きることはできないのだ。僕はそう思う。

 でも、このことは他のすべての人にも当てはまることだと僕は信じている。どの人も自分の生まれ出た世界があり、その世界で生きていくことが課せられているのだ。およそ、生きるとはそういうことなのだと僕は思う。生まれながらにして、その人なりの宿命を人は背負うことになるのだ。

 あまりに悲観論的すぎると思われるかもしれないので、もう一言付け加えておこう。僕たちは自分の生まれ落ちた世界があり、状況がある。その中で生きることを僕たちは要請される。しかし、人間はただ世界や状況に翻弄されるばかりではない。世界に働きかけ、世界を変えていくこともできるだろう。当然、それはたいへんな大事業なのであるが。そんなことをしなくても、その世界の中で僕が何者かになっていくことで、僕は僕とこの状況との関係を変えていくことができる。人は自分の生のためにできることがたくさんあるものである。幼児期は絶望には早すぎるのだ。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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