12年目コラム(77):僕の歴史・幼児期は永遠に
僕は精神分析が好きだ。精神分析学が明らかにしたことの一つは、人間は決して幼児期から解放されることはないという人間の事実である。そして、僕はこれは紛れもない事実だと考えている。今の僕は、僕の幼児期を抜きにしては考えられないし、この時代に経験したことは今でも僕の中で生き続けている。
例えば、以前もブログで、「旧ブログ」の方で書いたことだけど、この時期、僕は友達のD君の家に遊びに行った思い出がある。同じような家が並んでいて、どちらかがD君の家だった。当然、表札の漢字なんて読めない。僕は迷った。一か八かの賭けで、僕は片方の家の扉を開け、D君の名を呼んだ。すると、奥の方から、「D君は隣やでぇ~」という返事が返ってきた。僕はすごく情けないような思いに駆られた。
分かるだろうか。確立は五分五分だったのだ。その賭けにさえ僕は勝てなかったのだ。現在に至るまで、僕はギャンブルをほとんどしたことがない。僕は自分が賭けに勝てる人間だとは思えないのだ。賭けに勝つような人間だとは信じていないのだ。
だから、運とかツキという観念も僕には分からない。ニュアンスとしては分かる。「今日はツイていた」とか言う場合もある。その言葉を使ったとしても、本当にはその意味を僕は知っていないのだ。
懸賞に応募するとか、抽選に行くとか、そういうことも、基本的に、僕はやらない。まあ、商店街やコンビニの抽選とかはやったこともあるけど、自分が当選するなどとは信じていない。
こんな僕だから、ギャンブルにハマる人が好きになれないのだ。どうして、他の人間がすべて自分のために負けてくれて、自分だけが勝つと信じているのだろう。自分だけ特別だと考えているのだろうか。それならそれで、その根拠はどこにあるのだろう。過去に勝った経験があるからだと彼らは言うけど、ただそれだけの経験なら、根拠としてはあまりに乏しいと言わざるを得ない。
言い換えると、彼らは根拠もなく信じているだけなのだ。勝てるとかツキが回ってくるとか、根拠もなくそう信じているだけなのじゃないだろうか。
同じことは僕にも言える。過去に、勝率50パーセントの勝負で負けたということで、自分が勝てる人間ではないという信じることは、根拠としてはとても乏しい。頭では理解していても、それでも僕は「賭けに勝つ人間ではない」という自己概念を覆すことはできないのだ。
これが幼児期の魔力である。パチンコ依存の人は、パチンコで大勝した経験があり、その快感が忘れられないのだと言う。でも、それは正しくない。大人になってからの刷り込みにそれだけの威力はないと僕は思う。その人は同じような経験をもっと人生の初期の段階でしているのではないだろうかと思う
(中絶)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)。