12年目コラム(74):世相編~ブラック企業

 

 「玉子を割らなければオムレツは作れない」という諺が、フランスかどこかの国にはあるそうだ。日本の諺で該当するものがあるかどうかは、無学なためよく知らない。それに、この諺の意味も正確に知っているわけではないけど、「玉子を割る」という行為(破壊や犠牲を伴う行為)が伴わなければ、より価値のあるもの(オムレツ)は達成できないといった意味ではないかと思う。もし、間違っていたら申し訳ない。

 もし僕が何らかの犠牲を払って、大きな仕事を達成し、それによって報酬を得たとすれば、僕は玉子を割ってオムレツを作り、そのオムレツを食したということになる。その時、僕はこの諺の正しさを知り、これを一つの教訓にするかもしれない。あくまでも個人内の話では、この教訓は有益であるかもしれないと思う。

 しかし、集団でこの教訓を採用すると、そこには問題が生じる余地が生まれる。玉子を割る人間と、オムレツを作る人間と、オムレツを食する人間とが、それぞれ別人である場合には特にそうである。企業には、多かれ少なかれ、そういう傾向があるように個人的には感じられている。

 

 いわゆる「ブラック企業」が問題視されている。僕が思うに、企業はもともと「ブラック」な性質を有しているものだ。集団を形成するということに必然的にそれが伴うと僕は考えている。一部の「オムレツを食する」人間のために、多くの「玉子を割る」だけの人間が生まれなければならないのだ。

 集団を形成するためには、ある程度の閉鎖性が必要である。いつでも誰でも出入りできるといった集団は、集団として形成されない傾向を強める。また、集団意識、つまり「我々」意識を共有するためには、他集団の存在、「彼ら」の存在がなければならない。その意味で、集団形成には排他性も必要である。さらに、集団は機能分担的でなくてはならない。集団の構成員それぞれに役割分担がなされていなければ、それは烏合の衆のような集まりでしかなく、それは集団とは言えない。

 僕は集団には適しない人間だと思う。一応、集団に適応することはできるけど、じきに落ちこぼれてしまう人間だ。上の人間からすると、僕は扱いにくい人材だろうと思う。まあ、僕のことはいいや。

 

 企業が「ブラック化」するのは、より正確に言えば「よりブラック化」するのは、企業が生きていけなくなっているからである。

 政治家や日銀総裁の経済政策も効を奏さなかった。現状が厳しいというのもあるだろうけど、かつてはこれで上手くいったという経験が、もはや通用しない時代になっているのかもしれない。新たな経済や社会を考えていかなければならない時代に入っているのかもしれない。

 また、トップといえども、必ずしも「オムレツを食する」立場ではないかもしれない。彼らもまた「玉子を割る」役割に留まり続けているのかもしれない。「ブラック」なところは、立場の上の人間も同様に苦しいものである。

 もちろん、下の人間もまた企業の「ブラック化」に加担しているのである。彼らは空虚なのだと思う。その空虚を企業倫理で埋め合わせているのかもしれないと、そう思うことが僕にはある。彼が空虚なので、企業のことで彼のすべてを満たさなければならなくなるのかもしれない。彼は企業にあまりにも従順なのだ。

 オートメーション化やインターネットの普及は、労働のありかたを改善するはずだった。そう期待されていた。でも、蓋を開けてみれば、ただ人数が減っただけで、一人あたりの負担は以前よりも倍加しているといったありさまである。こうして過労死や過労自殺が生まれる素地が出来上がる。

 社員の過労自殺を生み出すような「ブラック企業」は、実は集団の自殺なのである。現実に自殺したのが一人であって、集団全体が破滅の道を駆け抜けようとしているのである。それは集団自殺のようなものである。

 ベンチャー企業やデイトレーダー、最近ではユーチューバ―といった職業は、それが職業として成り立つということは、かつての企業体制が時代遅れになったということを示していないだろうか。時代遅れの企業が時代遅れなことをにしがみついているために「ブラック化」しなければならないのかもしれない。

 

 「玉子を割らなければオムレツは作れない」では、企業はもう生きていけないかもしれない。これからは「玉子を割らずしてオムレツを作る」ようでなければいけないのかもしれない。企業に関するニュースや、企業に勤めるクライアントたちと触れていると、そういう感慨に陥るのである。

 

寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

 

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