12年目コラム(72):世相編~掲示板の「賑やかし屋」

 僕のことが掲示板に書かれていると、あるクライアントが教えてくれた。当時、僕はああいうのをどうやって見たらいいのかわからなかったので、放置していた。偶然、ネットを開いて検索していた時に、その掲示板を見つけた。びっくりしたね。

 僕の悪口が書いてあるのだけど、誰が書いたのかは、調べるとすぐに分かった。これは簡単に調べがつく。日付と文面とパーソナリティそれぞれの方面からアプローチすると、誰が書き込んだのか、すぐに特定できるのである。

別に書き込まれることは構わないのだけど、僕の知らない所でゴチャゴチャ陰口叩かれるのは気持ちのいいものじゃない。それが気持ち悪いというだけのことだ。ひと言僕に連絡をくれてから書いてくれればいいのだ。それなら僕も「あの掲示板に書かれているんだな」と分かるから、チェックできるのである。

まあ、それはいいとして、ああいう掲示板の書き込みを見ていて、書き手以上に「賑やかし屋」の存在が不気味だと僕は感じた。

 「賑やかし屋」っていうのは、僕が勝手にそう命名しているだけなのだけど、要するに、書き手の書き込みに周囲から集まってくる野次馬のような連中のことである。

僕のことを書き込んだ書き手は僕と面識のある人だ。実際の僕に会って、それから僕のことをあれやこれやと書くわけだ。これはまだいい。しかし、それに便乗していろんな人間が書き込んでくるのだ。僕からすると、「お前ら、誰やねん?」ということになる。

 いろんな掲示板を見て回った。やはり、どこにも「賑やかし屋」がいるものだ。中には、いくつもの掲示板を渡り歩いて、その都度、賑やかしていくというような人もいるかもしれない。恐ろしいことだ。

 腐敗物に触れていると腐臭が染み付いていくように、ああいう掲示板に入り浸っていると精神が腐敗してしまうことだろう。まあ、それは「賑やかし屋」個人の問題だから放っておこう。

さて、僕はこの「賑やかし屋」の存在に興味を覚えたのだ。どうして彼らはそういうことをするのだろうか。はっきり言って、書き手のことも僕のことも知らない連中だ。見ず知らずの人間の批評に割り込んでくるなんて、どういう心理なのだろうと僕は思った。

 一体、彼らは何をしたいのか、何を望んでいるのだろうか。僕は一つの仮説を立ててみる。彼らは誰かが、もしくは集団(企業なども含めて)が失墜するのを見たいのだ。そのように仮定してみよう。

 僕が思うに、「賑やかし屋」は人生がうまく行っていないはずである。こう思う根拠は後で述べるとしよう。彼らは自分がうまく生きていくことができないので、他の人間はみな上手く生きているように見えるだろうと思う。周囲はすべて自分よりも優位な人ばかりであるかのように見えているかもしれない。

 だから、こういうことである。自分よりも優位で優秀に見える人たち、自分よりも力や能力を有しているように見える人たち、自分よりも順調に生きているように見える人たち、そういう人たちが失墜していくさまを彼らは見たいのだ。

 この仮定は十分首肯できるものだと僕は思う。彼らは誰よりも自分が劣位にあると信じているのだと思う。優位にある者は、劣位にある者をさらに失墜させようとは思わないものである。すでに優位にあるからである。相手を失墜させたいと願うのは、常に劣位にある者である。

 この仮定に立って、さらにどういうことが考えられるだろうか。一人の「賑やかし」行為に、多くの人が同調するのである。精神分析的に考えれば、これはエディプス・コンプレクスに起源を持つものであると言えそうである。

 エディプス・コンプレクスとは、父―母―子供の三者によって構成される。子供は母を独占したいと思う。そこには父親という妨害者が存在している。この父親は自分よりも大きく、力もあり、地位もある存在である。子供は父に太刀打ちできない。そこで、子供はこう願うわけである。この父親がいなければ(失墜してくれれば)、自分の望む対象(母親)が手に入るのに、と。

 「賑やかし屋」はこのコンプレクスが刺激されているのだと僕は思う。

 先ほど、「賑やかし屋」は上手く生きていけてないだろうということを述べたが、僕がそう思う根拠がここにある。彼らが、エディプス期をうまく生きられなかった不平屋、神経症的な不平屋であると思うからである。

 父親がいなければという願望は、いわゆる「去勢恐怖」によって抑圧される。フロイトはこの抑圧が文化を生むと考えているが、それだけでなく、この抑圧が子供をして父親との同一化を促進していくのである。そして、父親との同一化は、超自我形成に寄与し、自我理想の形成をもたらすようになる。自我理想はその後、健全な自己愛へと発展していく。

 僕の中にも、やはり同じものがある。僕は掲示板の「賑やかし」行為こそしないが、それでも同じものを有している。大物とか大御所が失敗した時なんか、ちょっと嬉しい気持ちを覚えることもある。下克上と言うか、弱者が強者を打ち負かす物語などは痛快だと感じてしまう。これは、やはり、僕の中のエディプス・コンプレクスが刺激されているのだと思う。

 抑圧されていたものが、そうして、一時的に解放されるのである。でも、健康な人はそれを再び抑圧する。それを抑圧することが、自然な状態であるからだ。それがあるところの場所に戻すわけだ。おそらく、「賑やかし屋」はそれができないのだと思う。もしくは、最初の抑圧さえ経験していない人たちであるかもしれない。

 もし、「賑やかし」行為の後、後悔したり罪悪感に襲われるという人がいるとすれば、その人たちはちょっとましな例である。去勢恐怖の片鱗が窺われるからである。でも、それは抑圧を助けるほど強くはないのだ。

 以後、僕はあの手の掲示板を見ることはなくなった。また新たな書き込みがされているかもしれないし、そこには多くの「賑やかし屋」が集まっているかもしれない。勝手にすればいい。

 今の僕には書き手も「賑やかし屋」も、どちらも「かわいい」と思えてくるのだ。彼らは子供のように純真だ。自分が劣位にあること、自分の抱えている「症状」を無邪気すぎるほど無邪気に、無防備に開けっぴろげに曝け出すのだから。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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