12年目コラム(71):世相編~バカッター日本を潰す

 

 食材に埋もれたり、全裸で飲食店に入ったりして、その姿を撮影し、ツイッターなんかに載せる人たち、通称バカッターと呼ばれた人たちのことが社会問題になった年があった。

 悲惨なのは、バカッタ―ではなく、彼らを雇った人たちだ。ある老舗の蕎麦屋さんが、それで閉店したというのもニュースで知った。老舗の蕎麦屋になるだけでもたいへんだし、相当の苦労と努力、研鑽もしてきただろう。それを一人のアルバイト学生のたった一回のバカッター行為で、信用を失い、店を閉めることになるのだから、ひどいものだ。バカのせいで有能な職人が失業してしまうのだ。

 僕は、あの蕎麦屋さんには最後まで戦ってほしかった。そう思った。というのは、バカッター問題で明らかにされたことは、一人のアルバイトの人間が店を潰すことが可能だということ、そのための具体的方法を示したということである。こんなバカッターが増えたら、それこそ日本は滅びる。バカッターどもが日本を潰すのだ。

 

 それは店舗だけの問題ではない。バカッター本人にもかかわる問題である。

 ある企業の人事の人に話を聞いたことがある。新入社員を採用する時には、その人が過去にバカッタ―行為をしていないかどうか入念に調べるのだそうだ。それ自体、たいへんな労力である。

 僕は興味を覚えて、彼に、応募者が過去にバカッター行為をしていたらどうするのか、内定でも取り消すのかと彼に尋ねたところ、彼の返事はイエスだった。彼の会社のようなところばかりではないかもしれないけど、ある人が一度でもバカッター行為をすれば、今後、彼は労働力として期待されなくなるわけだ。

 バカッターは企業に入れず、労働力とならず、社会のはみ出し者になるしかないのかもしれない。それもたった一度のバカ行為のためにである。ネットの恐ろしいところは一生それが残り、ついて回るというところにある。

 バカッターが増えれば増えるほど、彼らは労働力になることができないので、日本全体の労働力が弱化することになる。若い彼らが何一つ力になることができないのだ。彼らはそうして自分の可能性を開花させることもできず、力を発揮することもない。たった一度のバカ行為のためにである。

 

 僕がバカッター事件に印象付けられているのは、バカッター本人だけでなく、彼に追従するような人たち、フォロワーと言ったらいいだろうか、に興味を覚えたからである。

 バカッターの行為は、僕にはすごく嫌悪感を催した。商品に埋もれたり、食材にいたずらしたり、全裸で飲食店に入ったり、こういうのは本人たちは面白がっているのかもしれないが、見ている側は何も面白いとは感じないし、むしろ嫌悪感に襲われる。僕はそうだったし、多くの人が嫌悪感で反応したからこそ社会問題化したのではないだろうか。

 ある人の行為に非常な嫌悪感を覚えるという場合、その行為に反社会的な要素が含まれていることが多い。バカッターの行為というのは、反社会的行為なのである。バカッター行為を一緒になって面白がったり、真似をしてバカッターになったりする人たちもいたが、彼らの問題は、それを真似ることではなくて、それに嫌悪感を催さないというところにある。通常なら嫌悪感を催すところを、彼らは嫌悪感以外の感情を惹起させていることになる。これは一種の逸脱ではないだろうか、そう僕には思えてくる。

 

 バカッター行為を見て、僕はゾッとした。それはプレコックス感に近い体験だった。だから、その行為はあまりに「自閉的」でシゾイド的であるのだと思った。バカッターはもはや我々に共有されている意味世界に生きていないのだ。モラルに欠けているのではない。あまりに病的なのである。

 お店の食材は、それを加工し、販売し、お金に換えるわけだから、言い換えるなら、それは金銭と等価である。その食材に埋もれるということは紙幣に埋もれるようなものだし、食材を踏みにじるなら、それはお金を踏みにじるのと同等のことである。そうした意味を彼らは喪失しているように思えてならないのである。

 そして、彼らは決して楽しんでいないのである。バカッター行為をして楽しんでいないのである。楽しんでいるように見えるかもしれない。しかし、限りない虚無と退屈が潜んでいる限り、彼らが何かをして楽しむということはないのだ。彼らは退屈で虚無であり、何かで埋めないといられないのだと思う。それはどんなことでもいい。注目を浴びるなら。それはそれでいいが、おそらく、「注目を浴びたい」は副次的な感情だろうと思う。

 とにかく何かを行為すること。そうしなければ自己の空虚に向き合うことになる。彼らが空虚なのは、社会で共有されている意味体系の世界に生きていないためでもあるだろう。共人間的世界に生きていないが故に、彼の行為は「自閉的」な様相を帯びることになるだろう。

 

 バカッター連中のもたらした衝撃は今でも忘れられない。僕には、日本と日本人の堕落を見せつけられた体験だった。かつて、ジベタリアンが話題になった90年代に「日本人は終わった」と感じた僕だったけど、それ以上の衝撃だった。日本はもうダメである。人間の質が低下しているのだ。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

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