12年目コラム(67):臨床心理の日米欧(13)~合理主義
どういう文脈で語られたものなのか、勉強不足のために僕は詳しく知らないのだけど、アントニー・バージェス(『時計じかけのオレンジ』の作者として有名)は、ヨーロッパでは事物から哲学が生まれるが、アメリカは哲学から事物が生まれるということを述べている。
これはつまり、ヨーロッパでは美しい何かが作られた時、それからそれがなぜ美しいのかという哲学が生まれるということなのだと思う。アメリカでは、なぜそれが美しく見えるのかという哲学が先にあって、そこからそれに基づいて、美しい何かが作られるということなのだと思う。
例えば正三角形を考えてみよう。「この正三角形がなぜ美しく、安定感があるのか、それは各辺が等角に設計されているからである」これがヨーロッパ的な方向である。アメリカ的な方向は、「この正三角形が美しく、安定感があるのかは各辺が等角に設定されているからであり、それによって〇〇が可能となる」ということになる。
少し余談を。上述のアメリカ的な方向として述べたことは、要するに、プラグマティズムである。
プラグマティズムは、パースによって創設され、アメリカのウイリアム・ジェームズによって発展し、広められた。ジョージ・A・ミラーの分かりやすい解説を引用させてもらうと、我々が事物に関して有する認識はその事物の実用的意味である、それがプラグマティズムということになる。
我々にとって「電気とは何か」という命題は、電気に関する概念内容ではなく、電気というものが持つ実用的概念について我々が抱いている概念内容である。つまり、「電気とはプラスとマイナスの方向を持つ力である」といった概念ではなく、「電気とは照明をつけ、重機を動かす動力である」という命題の方が我々にとっての電気の定義となるということである。
「彼は身長が2メートルある」という命題は、それ自体では何も表していない。「彼が身長2メートルもあるのは、この遺伝子が活発に働いたためであり、尚且つ、こういう生活環境がそれに寄与したからである」と説明するなら、これは事物から哲学が生まれるというヨーロッパ的方向である。
「彼は身長が2メートルある。それによって彼はバスケットボール選手に適している」と表現するなら、これはプラグマティズム的である。実用性を重んじた定義ということになるだろう。
行動主義がそうであったように、プラグマティズムもある種の合理主義であると僕は考えている。
さて、話を戻そう。ヨーロッパ的方向とアメリカ的方向(便宜上、このように分けているというだけですが)は、個人をしてどのように動かすであろうか。
あなたがある場面で上手くやったとする。そこから、その時に上手くできた要因をあなたは探すとする。いろいろな要因が見つかるかもしれない。僕の分類では、これはヨーロッパ的なやり方ではないかと思われる。
しかし、あなたはこうすることもできる。その場面で上手くやるための要因を予め探し、収集しておいて、いざその場面に遭遇すれば、その要因を働かせる。これはアメリカ的なやり方ではないかと僕は思うわけだ。
もちろん、どちらが正しいとか望ましいとかいうことを僕は述べるつもりはない。どちらも一長一短があるだろう。一つだけ僕が決定的だと思うのは、前者は自分の中から上手くいった要因を探すのに対し、後者は自分の外からその要因を探して持ってきているという点である。この場合、自分の中にその要因があるということはなかなか信じられなくなるのではないかと思う。
これをする人がいかに多いことか。
人と上手く話すことができないという人が、ある場面で、実にうまく相手と言葉を交わすことができたとしよう。その人に、「なぜ、その時はうまく行ったと思うか」と尋ねてみよう。この人は「たまたまです」と答えるかもしれない。これは合理主義の考え方に行き着くと僕は思う。
つまり、この人の言うのはこういうことである。自分にはこれまで上手く話せるような訓練も経験も積んでいないから、その時に上手くいったのは本当に偶然なのですということだ。
そういう経験も訓練もない、過去に成功した例もほとんどない、それでもその時に成功しているというのは、極めて非合理に見えるだろうと思う。合理主義の観点からすれば、この人には合理的でない出来事が生じていることになると思う。
しかし、過去経験がどうであろうと、この人はその場面でまぎれもなく成功しているのである。それならば、過去経験を脇に置いておいて、この成功場面そのものから考えてみようではないかと、僕はそういう方向で考えてみる。これは、現象学的な方向であると言えるだろう。現象学や実存哲学がヨーロッパで生まれるのは当然であるような気もする。
変化・変容、あるいは成長とか成熟というものは、とても非合理な現れ方をすることもあると僕は思う。合理的な観点からすれば、実に回りくどかったり、時間や手間がかかるように見えるだろうと思う。でも、人間の自然は非合理の領域に属すると僕は思うので、そのような非合理さの方が正しいことであるように思われるのだ。
心理療法の分野でも合理主義がずいぶん入り込んできているように思う。僕の書架には『認知療法全技法ガイド』(ロバート・L・リーヒィ著 星和書店)なる本があるのだけど、これには100種近い技法が紹介されている。基本は、一つの技法が上手くいかなければ、他の技法を試みよということなのであるが、実に合理主義である。
こうして、クライアントは合理主義と技法の俎上に乗せられることになる。技法的な関係がここで築かれてしまうのではないかと僕は危惧する。人間どうしの関係に、あまり技法が介入しすぎることは、あまりよろしくないことだと僕は考える。技法よりも、気遣いや思いやりの方が持ち込まれなければならないと僕は思う。
そして、気遣いであるとか、思い遣りっていうことは、合理主義からすれば、すべて非合理な行いなのである。人間から非合理性が排除されていけばいくほど、そういう人間どうしの間で形成される関係は、冷たいものになるのではないかと、僕はそう思うのである。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)