12年目コラム(62):臨床心理の日米欧(8)~無言カウンセラー

 僕がある講義、社会学に関する講義を受けている時だった。教授は「日本の学生はやりやすい」と漏らした。その先生によると、アメリカで講義をしていたら、教授が講義している最中に学生が質問や意見をバンバン投げかけてくると言う。教授は、終いには怒って、「まず、講義を最後まで聞け、それから質問を受け付ける」と学生たちに怒鳴ったそうだった。
 アメリカおよびヨーロッパにはそういう文化があると思う。自己主張の文化と言ってもいいだろう。だから説得の技術や討論(ディベート)があれだけ発展したのだろうと思う。

 ロジャースを始めとするアメリカのカウンセリング心理学では、とにかく傾聴ということを重視する。僕も傾聴自体に反対するものではない。しかし、アメリカ人が傾聴を重視することと日本人が傾聴を重視することの間にはけっこうな違いがあるように思う。
 日本人はむしろ傾聴が得意だと僕は思う。先生や上司の話を、日本人は静かに聴くのである。そういう光景が珍しくない。逆に相手が話している最中でもお構いなしに質問を投げかけたりすると、白い目で見られたりする。
 アメリカのカウンセラーたちが傾聴を重視するのは、それが彼らにとって難しいからだと僕は思う。傾聴を重視しましょうということは、彼らにとっては、自分たちが身につけた文化傾向を抑制しましょうという提案なのだ、そう僕は解釈している。
 だから、黙って告白を聞く牧師などが尊敬されるのだと思う。その人たちは、自分たちにはできそうもないような、とても難しいことをやっていると西洋の人たちには思われるからだと思う。

 問題はカウンセリングが日本に入ってきた時のことだ。日本人はそれをそのまま踏襲しようとしたと思う。文化の違いを幾分度外視して、傾聴することが大切だと言われているから、とにかく我々も傾聴に努めようと、そういう方向に向かった側面があるように思う。
 つまり、傾聴するということが、アメリカ人のカウンセラーたちは、自分たちの得意とするやり方を抑えて、苦手な分野を克服していきましょうという意味になるのに対し、日本人のカウンセラーは、苦手なやり方はそのままにしておいて、自分たちの得意とするやり方を伸ばしていきましょうという意味になってしまったのだと思う。そして、日本人はその方向に向かったように僕には思われるわけである。
 こうして一言も発しないカウンセラーというものが登場したのだと思う。でも、あれは間違いである。

 よく、カウンセラーは「話を聴くだけ」と批判されるのだけど、それはカウンセリングが輸入された時に、初期のカウンセラーたちがすでに間違いを犯していたためだと僕は思う。それが伝統的に続いているのだと思う。
 あまり一般化して述べることにも問題があるのだけど、そこは少し脇に置いておこう。日本人は黙って話を聴くということに慣れているし、得意である。むしろ、相手に対してそこがよく分からないとか、それはどういうことですかと、率直に尋ねる方に困難を覚える人が多いのではないかと思う。日本人カウンセラーは、自分たちの苦手領域を克服しないための方策を取ってしまったのだ。言い換えれば、自分を変えないためにカウンセリング理論を誤用したのだ。僕はそのように考えている。

 僕がロジャースの面接を初めて見た時に、意外に思ったのは、ロジャースの発言がけっこうあるということだった。一言一言で言葉のやり取りが交わされているという印象を受けるのだ、
 しかも、ロジャースの発言は、日本語訳されるとまったく違った意味になってしまうということも発見だった。
 例えば、「今日、外に出てから、心臓がドキドキしているんです」とクライアントが言うとする。ロジャースの発言は「あなたは心臓がドキドキしている」という感じである。それが日本語に訳されると、「あなたは心臓がドキドキしているんですね」という、一種の確認を含んだ疑問形の文章になってしまうのだ。ロジャースの言う「反映」は、日本語ではなかなかできないことであるようにも僕は思った。
 標準型の精神分析(つまり、クライアントがカウチに横になり、分析家がクライアントの視野に入らない所に位置するというスタイルで行われるもの)でも、分析家は日本人が思い込んでいる以上に黙っていないはずである。たくさん言葉をかけているはずである。もし、クライアントが独り言を言うのと変わらない体験をしているのであれば、そこに転移関係が生じるはずがないのである。

 僕も過去には一言も発しないカウンセラーの面接を受けたことがある。あれは苦痛以外の何物でもなかった。カウンセラーからのリアクションがまったくないという状況では、クライアントは何も感情体験をできないと僕は信じるようになった。
 よく、カウンセラーは「純粋であること」とか「自己一致していること」などと言われる。僕は反対しない。しかし、その「純粋」や「自己一致」はどのようにして表に現れるのだろうか。
 クライアントの話を聴いていて絶句することも僕はある。何も言えなくなるのだ。そういう時は黙っていればいいというのは、一つの純粋さであり、自己一致である。しかし、本当にカウンセラーが純粋で自己一致しているならば、「私はあなたの話を聴いていて、何も言えなくなってしまいました」と伝えるものだと僕は思う。そうでなければ「純粋」とは言えない。
 もちろん、傾聴は大事である。カウンセラーが何も言わない場面があっても構わないとは思う。しかし、カウンセリングのルールに従って黙っているのであれば、それはクライアントには何の益もないものだ。いっそのこと「私はあなたの話を黙って聴いてみたいと思います」と明確にクライアントに伝えた方がましである。純粋さとか自己一致とかいうのは、そういうことなのではないだろうか。

 あくまでも僕が経験した範囲なのだけれど、そういう自己開示をきちんとするカウンセラーは日本では少ないと感じている。それが苦手だという人が多いからだと思う。
 そんなことを言う僕も、かつては黙って聴くタイプだった。一回の面接で、僕の発言量が8回くらいしかないこともあった。今の僕からは信じられないことだ。
 僕は、正直に言う、黙って傾聴するなら得意だと信じていた。これなら僕にもできると考えた時期があった。僕もあまり自己主張とかをしない人間だった。今でも幾分その傾向がある。自分の意志や要求をきちんと相手に伝えることに、躊躇してしまう自分がある。
 そういう時、黙して聴いているということは、僕の傾向にぴったり一致していることになる。僕の傾向に一致する場面では、僕は「ラク」だと感じられる。でも、それではいけないのだ。アメリカのカウンセラーたちが自分たちの苦手な傾向を克服してこうとしたように、僕も含めて、日本人カウンセラーは僕たちの苦手な傾向を修正し、伸ばしていかなければならないのだ。
 クライアントに積極的に関与し、介入し、時には対決していく、すべて僕が普段の生活ではしてこなかったことだった。カウンセリングをしていくために、僕は自分のその傾向を克服していかなければならなかった。
 十分克服できたとは思っていないけど、昔に比べるとそういうことができるようにもなってきている。傾聴することも大事だし、時には黙っていることが必要な場面にも遭遇する。それでも、一言も発しないようなカウンセラーは、はっきり言えば、役立たずである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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