9月29日(水):「結果オーライ」の使い方
昨日の日刊ゲンダイを読んで思い出したことがある。昨年のこの時期だ。感染対策の効果が疑問視されていたけれど、政府は結果オーライとして、ゴートゥーキャンペーンを実行したのだ。僕の言いたいことは、「結果オーライ」の使い方がおかしいということである。
あることを計画する。8割は概ね計画通りいったけれど、2割はちょっと上手くいかなかったとしよう。結果オーライはこの2割に対して言われる言葉である。2割上手くいかなかったけれど、結果オーライということで、この2割の部分は目をつぶろうってことだ。
それは、この2割の責任を追及はしないけれど、反省しなくていいという意味ではない。また、8割が上手くいかなくて結果オーライって言うわけにもいかない。それは偶然か運良く結果オーライになっただけのことである。ほとんど大失敗である。
自分一人で計画して実行することなら、自分自身に「結果オーライだからいいか」と言うことは許される。しかし、施策者がいて、その施策の恩恵を受ける人がいる場合、つまり、政府と国民がいる場合、結果オーライと言う権利があるのは国民の方である。施策者側が自分たちの施策に結果オーライと言いのけるなんて、図々しいにもほどがある。結果オーライだからいいよ、と言えるのは国民の方である。
ともかくトンチンカンな日本語だと思ったものだった。昨年はそういうのがやたらと目についた。いや、耳についた。主にコイケの言葉がミョーに響くことが多かったのを思い出した。
実際には結果オーライではなく、結果オーライということにして、これ以上そのことに口出しするなという口止めの言葉であったように思う。日本の将来は暗澹たるものだ。こんなところでも恫喝まがいのものが通用しているのだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)