9月18日:唯我独断的読書評~『幻想映画館』

9月18日(土):唯我独断的読書評~『幻想映画館』(高橋克彦)

 

 ここ数年、僕は映画をたくさん観ている。僕の人生で幾度か映画ウエーブがあったのだけれど、今は第4波くらいだ。最初は子供時代で、もっぱらテレビの洋画劇場なんかで映画を観まくった頃だ。第2波は大学時代からでレンタルビデオの普及によるものだ。第3波はもっと後のものだけれど、ほとんど現在の第4波に引き継がれている。

 第3波と第4波の違いは、もっぱら映画を鑑賞するだけだった第3波に加えて、第4波では読むほうもやるようになったことだ。映画に関する本なんかも積極的に読むようになったことだ。

 ともかく、映画を観ようと思ったら、作品を知らなきゃなんない。そうして、その作品を観てみようという気持ちになることが重要だ。そのため、映画紹介されている本なんかは重宝したい。

 

 本書は作家の高橋克彦さんが選ぶ40本のホラー(ファンタジーやSFなども含む)映画が紹介されている。

 ホラー映画なんて、観る前に、どんな怖いシーンがあるかを前もって知っておかないと、僕の場合、危険である。予備知識なしに怖い映画を観てしまったら、ホントに困ったことになるのだ。そういう予備知識を得るということも目的の一つとして本書を購入したのだ。

 

 その前に、こういう映画作品の紹介本をいくつも読むとそこに三つの柱があることに気づく。

 A・作品の内容に関すること。これはストーリーとか見所などの記述である。

 B・作品そのものに関すること。これはキャストやスタッフのこと、楽屋の裏話とか制作秘話など、そうした事に関する記述である。

 C・作品に関する著者の個人的事柄に関すること。これには著者の感想とか思い出なんかに関する記述である。

 

 振り返ると、映画解説者にもその人らしさがある。

 浜村淳さんはAの傾向が強く、映画の前の解説で最後のオチまで言ってしまうほどだ。ミステリ映画をこれから観るってのに、犯人が執事のロバートだったなんてことまで解説してしまうのだ。ある意味、親切である。映画の途中で眠ってしまっても最後まで話が分かるようにしてくれているわけだから。

 淀川長治さんは、とにかくBに関するウンチクが凄かった。生き字引とはああいう人のことを言うのだろうと、僕の中ではそういうイメージが定着している。

 水野晴朗さんはCのことをけっこう言うイメージがある。「この俳優さんがなんともいえない魅力があって」とか、「このシーンがなんともいえない余韻を残して」とか、「カメラワークがなんともいえない見事で」とか、水野さんが感じ取ったなんとも言えない良さをそのまま伝えてくれるのである。

 

 映画紹介本にも、その著者の個性が現れるものである。

 僕としてはA→B→Cの順位にしていただけるとありがたいのである。著者の個人的体験談は少しでいいのである。しかし、いかんせん、本書はC→B→Aの順位なのである。高橋克彦さんの個人的体験が強すぎて、作品の内容なんかをもっと知りたいと思う僕には欲求不満が残るのである。

 メル・ブルックスの『新サイコ』(これは僕のキネマ館でも取り上げた)に至っては、ほとんどがメル・ブルックスへの賛辞であり、日本で正当な評価を受けていないことの不満であったりして、本作品に関する記述は最後の3行(より正確に言うとそのうちの2行)だけという代物だ。三本柱のCが強すぎるのだ。

 

 本書はもともとは某雑誌の企画であったそうだ。その際に、ビデオ化されていない作品は取り上げてはいけないといった制限が著者に課せられたそうだ。そのため、本書の随所で著者は「紹介したい作品もビデオ化されていないので紹介できない」などと嘆いているのだ。でも、ちゃっかりしたもので、紹介できない作品もあちらこちらで言及しているのだから世話ない。

 そういう記述を読むと、「こういうことを言うとお叱りをうけるかもしれないが」とか「あんまりハッキリ言うのは憚れるのだけれど」とか「あまり言いたくないことなんだけれど」などと前置きしながらハッキリと放言してしまう僕は、なんだか自分と同じ匂いを感じ取ってしまうのである。メル・ブルックスが素晴らしいという点ですでに著者とは一致しているのである。

 

 本書の内容はともかく、この著者のお勧め作品は案外僕の好みに合うかもしれないと思い始めている。それでも本書の評価が上がるわけではないのだけれど。

 

 本書の唯我独断的読書評価は3つ星。本文よりも巻末の「作品ガイド」の方がありがたいという代物である。それでも高橋克彦さんの小説を読んでみようかいなという気持ちにもなっている。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

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