9月6日(月):対話喪失国
先週、ガースー首相が総裁選を辞退すると公表してから、ワイドショーなんかももっぱら次期総裁選の話題ばかりという観を呈している。どっちみち自民党内だけで行われる選挙なので、国民はまったく関係がないのである。僕にとってはどうでもいいことだ。
それに、ガースーさんが引っ込んでくれるのはありがたいとしても、それに代わる人がいるとも思えない。誰が首相になっても同じだという感じがする。というのは、首相個人の問題だけでなく、党の性質の問題の方が大きいと思うからである。自民党がやる限り、自民党のやり方でやるだろう。
政権交代が望ましいとしても、野党も今一つしっかりしない。自民党の後を受けるのではなく、自民党が踏み荒らしたところをすべて更地にして作りかえるくらいの気迫が乏しいように思えてくる。
ガースー政権であるが、オリンピックなんてものをやらかした。パラリンピックも同じくらい盛り上げようとするのかと思いきや、僕の受けている印象では、パラの方はどうでもいいという感じがしてしまう。パラの閉会式ではガースーさんが腑抜けのようだったという報道も僕は耳にした。そんなものだろう。
僕は基本的に五輪には反対だ。開催国を潰すイベントだと思っている。そして、そんな大会を開催できるのは先進国に限られている。途上国との間に格差を生み出しているようにも僕には見えるのだ。それはそれとして、ともかく危険なイベントであると僕は思っているので、できることならそういうイベントは無しにした方が世界のためになると僕は信じている。
加えて、今はコロナに取り組まなければならないのだ。日本のコロナ対策は出遅れた上に、五輪遅れをとってしまっていると僕は理解している。遅れをとってはいけない時期なのに、五輪で遅れをとってしまったのではないかと思う次第である。
アベ・ガースー政権が五輪を推したのは政権維持の目論見があるからだという話もよく聞く。生き残るためならなんでも利用しようということなのだろう。このような体質の政権がよく飲食店いじめをできるものだ。
時短営業を守らない飲食店(その他パチンコ店なんかでも)は、結局は自分たちが生き残るために開業しなければならないということなのだ。自民党がやっていることと本質的に違いはないように僕には思えるのだ。しかし、某大臣などに象徴されるように、自分たちはそれをやってもよく、飲食店が同じことをやれば罰則を設けるというようなことを平気でやらかすのだ。これが自民党政権である。
国民の命を守るのは私の使命だ、とガースー首相は主張する。その一方で、医師たちに医学的使命を果たせなくしているのは誰だとも言いたくなる。飲食店でも使命があるだろうに、それを果たせなくさせているのである。自分の使命を果たすのは良いことで、それ以外の人がそれぞれ自分の使命を果たすことは、悪いとまでは言わないまでも、とことん妨害する。案外、これがガースー政権の正体なのかもしれない。こんな政権は早く終わって欲しいものである。
この政権では恫喝と恐喝が常套手段である。原稿棒読みで一切自分の意見を言わないことも、必要な説明をせずに帰ることも、説明の場を忌避することも、不都合なデータは改竄したり行方不明になったと言い逃れすることも、こういう手段がすべて通用する政権である。まともな議員なんて皆無であるように見えてくる。
デジタル庁は恫喝議員の管轄だ。ワクチン交渉もそうだ。ワクチン外交でも恫喝なんかしているのだろうか。日本で通用しても外国では通用しないだろう。売る側は日本をブラックリストに入れているかもしれない。恫喝なぞしない国に優先的に売りたいと思うことだろう。
恫喝や恐喝が通用するのは、そこにコミュニケーションが存在しないからであると僕は思う。相手と交渉するという手間をかけることもなく(つまりそれらは一方通行で事足りるからである)、もっとも手っ取り早く目的を達成する手段なのである。
コミュニケーションとかレトリックの観点に立てば、今の政治家は小学生程度だと僕は思っている。まあ、このことは政治家だけに限ったことではないかもしれない。日本全体が対話を失った国であるかもしれないと、そう思うことが僕にはある。
対話をし、弁証法的に新たなものを生み出す、新たな方向性を打ち出す、あるいは双方で納得のできる第三の選択肢を構築する、そうしたことが見られなくなった国ではないかと、僕は実感する次第である。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)