8月28日(土):来てくれる人のために
先週はヒマ週だったのに対して、今週はけっこう忙しい。仕事の方もそうであるし、月末ということもあってその他の事務や雑用なんかもいろいろしなくてはならない。加えて家庭のこと、私生活の領域でもあれこれと用をこなさなければならなかった。
来週は、今週ほど忙しくはなさそうであるが、それなりに仕事や予定も入っている。日々、コロナ感染に怯えながら暮らしているけれど、生あるうちに少しでも前に進んでおきたいし、少しでも人さまの役に立っておきたい。
今週は忙しいということもあって、ブログも疎かにしていた。今日から可能な限り書いて残しておこうと思う。パソコンのワードのトラブルはそのままなんだけれど、上手くやっていく方法を新たに見つけたので、これからは若干の手間はかかるけれど、ブログやサイトの方も書いていこうと思う。
今朝のクライアントには初っ端から鎌をかける質問を出した。それにどう反応するかをみようと思っていた。最悪の反応、凡庸の反応、最高の反応と、僕の中では予想しているところのものがあったが、この人は凡庸の反応をされた。最高の反応をしてほしかったと思っている。
午後からのクライアントは、一か月くらい間が空いている人だった。前回の振り返りをもう少ししておいたら良かったと面接中に後悔する。このクライアントはまだ掴めていないところがたくさんあって、まだ良くわからないところがある。
昨日のクライアントの一人は、ある部分では心を開いてくれている感じがするし、僕のことも信頼してくれている感じもあるんだけれど、どこか、まだ頑なに閉ざしているところのものがあるようだ。そこを無理にこじ開けようとはしないけれど、もう少しオープンにしてもらえたらいいなあと思っている。
昨日のもう一人の人は、ある程度は家庭の中で居場所を確保できるようになっている。それはそれで望ましいことだ。家族の働きかけの中には困ったものもあるが、この人がそれの影響を最小限にできればいいことである。
その他、今週来られた方の中には、他罰的な傾向の強い人もある。その傾向を僕はすごく危惧している。この他罰傾向はこの人がしっかり実存していないことに由来するのであって、決して過去の親の影響だけではない。多少は過去経験の影響もあるかもしれないけれど、僕はそれは少しだと思っている。むしろ、現在のその人が生きていないことがこの人を攻撃的にしてしまうのだと思っている。
次まで生きていてくれるかいなと思う人もある。まあ、次の予約を取ってくれているということで安心しているのだけれど、心配になる時もある。
その他、今週も何人もの人に会うことができた。一人一人のことで気になることや気がかりに思うこともあるけれど、こういう仕事をするとはそういうことなのだと思う。そもそも、人と関係を築くとはそういうことなのだ。その人のことが他人事ではなくなっていくのだ。より正確に言えば、その人の関係に僕は無関係でいられなくなるのだ。望むとか望まないとかに関係なく、僕はその関係に引き入れられていくのだ。僕がしなければならないことは、それを引き受けていくことなのだ。
苦しいことや負担も増えるけれど、人と会うということに喜びや幸福を見出さなければならないのだ。その代わり、会うことのない人のことまで僕は気にしない。今日の電話の人も、面接を受けに来るというのであれば僕は引き受けるのであるが、そうでないなら僕とは無縁の人だ。無縁の人に対しては何も言えない。何か言ってくれと言われても、会ったこともない人のことは何も言えないのだ。
僕は僕のところに来てくれる人のために生きる。それで十分である。いや、十分以上だ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)