<T6-19>自殺と遺族
「うつ病」は、その症状が直接生命に関わるというような「病気」ではありません。どれほど「重症」の「うつ病者」であれ、生命を維持していくことが可能なのです。
人命に関わるのは症状ではなく、その行動化、つまり自殺や自傷行為にあるのです。「うつ病」そのもので命を落とすことはないのですが、「うつ病」は自殺と親和性を有するが故に、私たちは「うつ病」者の自殺を防ぎたいと思うのです。
自殺者のすべてが「うつ病」ないし「うつ状態」にあるとは言えないのですが、「うつ病」を患っている自殺者の割はそれなりに高いでしょう。また「うつ病」者のすべてが自殺ないし自殺願望を持つとは言えないけれど、高い割合で自責感情を示すのです。自殺願望から実際の行動化へ、それはほんの一瞬の事かもしれず、周囲の人は完全に防ぐことは難しい。
どれだけ厳重に監視していたとして、一瞬の隙をついて、自殺者は自殺を決行してしまう。監視者がわずかに目を離した隙に自殺を遂げたというような例もある(『自殺のサイン』)。
以下は私の印象の範囲で述べるのですが、「うつ病」者の自殺はとても静かに行われる。誰もその人から自殺のサインのようなものが感じられないこともある。まったく普通に、いつもと同じその人のように周囲には見えるのです。そして、本当に自殺を試みようとされた男性クライアントの話によると、自殺願望から自殺の実行へ、その一線は簡単に越えられそうに思えるのだそうです。
つまり、「うつ病」者の自殺は周囲には気づかれないうちに行われるのです。そういう素振りが少しも見られない中で起きるのです。当人が意図的にそのようにしているのかどうか、定かなことは私は知らないのですが、こうして「うつ病」者の自殺は周囲になかなか気づかれない状況で起きることが多いように思います。
「うつ病」者の自殺は、地味だけれど、確実に死に至るという手段が採られるのです。狂言自殺めいたことは決してしないのです。シルヴィア・プラスのような派手で奇抜な自殺手段は採られず、江戸川乱歩の小説の人物のような自己顕示的な自殺もしない。「うつ病」者の自殺は、人知れず静かに自らの生を終えるというイメージがあるのです。
自殺は大抵の場合一人で行われますが、無理心中する例もあります。例えば「こんな辛い世の中に生まれてきたこの子が可哀そうだ」と思い、我が子と心中を図るというような例です。この時、自殺者の感情が同伴者に投影されているのです。ただ、集団自殺のようなことは「うつ病」者では見られない傾向があるように思います。
行動化にはエネルギーが必要なのですが、そうしたエネルギーが回復してきた頃に自殺が現実に生じるのです。そのため、治療的に言えば、症状から回復していく時期に多いと言われています。
遺族の方々、自殺者の友人や知人たちはしばしばその人の自殺に責任を感じてしまうのです。彼らはその人の自殺をどうして止めることができなかったのか、どうして打ち明けてくれなかったのか、自殺のサインを見逃してしまったなどと、自分を責めてしまうのです。
「うつ病」者の自殺は人知れず行われてしまうものであり、周囲がいくらそれを止めようと努力しても、わずかの隙に決行してしまう例もありますので、周囲の人たちが自分を責めたくなる気持ちは理解できるとしても、その人たちに非があるわけではないのです。誰も止めることができない自殺というものもたくさんあるのです。
自殺に限らず、誰かと死別するということは本当に辛い体験です。自殺ではなかったのですが、私の友人や知人の中にも、病気や事故などで、若くして亡くなられた方がおられるのです。自分に責任があるわけではないということが、頭では分かってはいるものの、やはり心のどこかでいろんな後悔の念などが湧き上がってくるのです。
死んでしまった人に対して、生きている人は何をしてあげられるだろうか、私は一時期このことを真剣に考えたことがあります。その人に何かをしてあげたいと思っても、その人は既に故人になっているのです。そこには、何かをしてあげたいのに、何もしてあげられないという無力感や敗北感のような感情が渦巻いていました。
私の行き着いた結論では、私たちが故人に対してしてあげられることは一つしかないのです。でも、それはとても重要な一つなのです。それは決して故人を忘れないということなのです。時には故人を偲んで、故人にまつわる思い出話なんかをして、故人を無に帰さないことなのです。私はそれがとても重要で大切なことのように感じています。その人が思い出してもらえるということが、取りも直さず、その人の生に価値があったことの証になると私は考えるのです。
もし、辛いからと言って、私たちが故人を忘却してしまうとすれば、私たちは故人の価値を積極的に切り捨てているように私には思われるのです。
ある人の自殺を食い止めることができなかったとしても、遺族は自分を責める必要はないのです。自分を責めることよりも、亡くなったその人のことを決して忘れないことの方が大切なのです。それで自分を責めている時、遺族は故人を見ているのではなく、実は自分たちを見ているのです。私たちが自分の方を見ている間、故人は無視されているのです。これが故人の忘却の始まりなのだと私は考えるのです。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)