7月26日(月):根性論
あるクライアントさんたちに言わせると、僕の思考には根性論とか精神主義とかいうものが濃厚であるらしい。確かに、そういう部分があることは僕自身認めているのだけれど、根性論というのがそんなに悪いものだとも僕は思っていない。
僕が子供の頃はスポ根マンガが流行っていた。ものずごい猛特訓をして頂点を目指すといった類の物語がウケていた。今では時代遅れだ。やたらに過酷な練習に明け暮れるよりも、もっと科学的エビデンスに基づいた効率的なトレーニングをしようということになるだろう。時代はよりクールになりつつあるようだが、子供時代にあった雰囲気はきっと僕の中にも残っていることだろうと思うので、根性論が僕の中にあるとしても不思議ではないのだ。
僕は根性論が間違っているとは言わないのだ。ただ、僕が反対するのは「しごき」や「体罰」である。根性論や精神主義に反対する人の中には両者をあまり区別していない人もあるのではないかと思う。「しごき」「体罰」は懲罰主義であり、それは根性論や精神主義とは異なるものであり、ましてや密教なんかの修行にあるものとも異なるのである。
「しごき」「体罰」が、それを受ける側にもたらすのは、攻撃衝動である。それは復讐心となって表現されることもあれば、直接的な攻撃性として表現されるようになるかもしれない。要するに、それは「エス」に属するものの活性化なのである。同じように、「しごき」「体罰」を加える側にもそれが言えるのである。彼らが支配されているのはエスの原理である。特に非合理、不条理な「しごき」「体罰」に関してはそう言えると僕は思っている。
正しい(と言っていいのか)根性論、精神主義は現実原則を強化するものである。
人が苦しい状況に置かれる。厳しいトレーニングで限界を感じるといった状況に置かれる。苦しい状況に置かれる時ほど人間が現実に直面する場はない。幸福な場面の思い出はどこか遠い出来事のように思われても、苦しい場面の思い出は今でもリアルな感覚をもって思い出されたりすることはないだろうか。苦しい場面で、僕たちはその苦しい現実に直面しており、その現実に生きているのである。
苦しい場面になると、当然、その現実から逃避したくなる気持ちが生まれる。この逃避は「エス」原理である。根性論とか精神主義とかいうものは、そこで逃避することなく、その苦しい現実に留まることを主体に要求するのである。つまり、徹頭徹尾現実的であることを求めるのである。
僕は高校時代に陸上部で中長距離を走っていた。長距離を走っていると、だんだん苦しくなってくるわけだ。人によって異なるだろうけれど、僕の場合、あまりに苦しい状況になると、頭の中で音楽が流れるのだ。よく知っている曲だったり、あるいはCMで聞いた曲であったりするのだけれど、頭の中で音楽が流れ、不思議なことに、走りながらその音楽を聴いているのだ。
今から思うと、あれは逃避反応であり、軽い解離だったのであるが、その現実に留まり続けることができていなかったのだ。その現実を耐えがたいものとして体験していたようだ。非現実(聞こえるはずのない音楽を聞く)に逃避し始めていたのだ。根性論はその逃避を禁止することである。そして現実原則に従うことを求めるのだ。
いわゆる「自分との戦い」というものがあるとすればその部分である。何と戦うのか、それはエスの要求に対してである。快楽に流されそうになるのを振り切り、自分が今置かれている現実に留まるための戦いであると僕は思う。
根性論、精神主義は、僕の思うところでは、エスの快楽原則に対立するものである。快楽原則が抑制されることで現実原則がそこに代わらなければならない。現実原則を心の中に打ち立てていくこと(それは自我の強化ということになるのだが)、それを目標にするのが正しい根性論、精神主義である。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)