7月20日(火):唯我独断的読書評~『ピエール・パトラン先生』
一時期、中世の文学に興味を持っていたことがあって(短期間だけど)、その時に買い漁った一冊。薄い本なのでいつでも読めると余裕をこいていたためか、未読のままだった。せっかく買った本だから読もう、ということになって読んだのだけれど、まあ、面白いじゃないの。
作者は不明で、ノルマンディ出身のギヨーム・アレシスという修道士の作という説が有力であるそうだ。フランスのファルス(笑話)劇で、韻文調の戯曲である。原文の調子を日本語に訳すことはかなり難しく、訳者もかなり苦労されたそうだ。しかし、原文の魅力が伝わらなくても、物語それ自体が面白いので、それはそれで良いという気持ちになってくる。
主人公であるピエール・パトラン先生というのは、現代で言えば弁護士である。この先生、かつては千客万来で繁盛していたものの、今や客も来ず、服もボロボロになっており、金も無く、生活困窮状態に陥っている。彼は妻のためにも羅紗布を調達しに行く。
羅紗屋のギヨームは強欲な男であるようだ。パトラン先生はお得意の「口車」を駆使して羅紗屋から布をせしめる。後で家に集金に来てくれと先生は羅紗屋を誘う。
店じまいをした羅紗屋はさっそく浮かれ気分でパトラン先生宅へ向かう。すると、夫人が出てきてパトラン先生は難病を患い、ずっと寝込んでいるというではないか。言うまでもなく、パトラン先生の策略である。うなされ、訳の分からない戯言を口走るパトラン先生を見て、これは悪魔がパトラン先生の姿を借りて俺を惑わしたに違いないと羅紗屋は信じこみ(このような信念が現れるのは羅紗屋が悪であることを連想させる)、慌てて逃げだす。パトラン先生夫婦の大芝居が大成功したわけだ。
面白くないのは羅紗屋である。この損失を少しでも埋めるために羊飼いにイチャモンをつけてせびり取ろうとする。羊飼いは羅紗屋に雇われている身分である。羅紗屋は羊飼いを裁判にかけると脅す。
たいへんなことになった、と羊飼いはパトラン先生のところへ駆け付け、弁護を依頼する。パトラン先生は裁判が始まってもずっと演技をするように羊飼いに指示する。
さて、裁判が始まる。羅紗屋はまたもビックリである。朝、掛け売りで羅紗を持っていったパトラン先生を見て、その後重病に犯されているパトラン先生を見て、そして今、何事もなかったかのように法廷に立っているパトラン先生を目にしているのだから、なにがどうなっているのやら羅紗屋には訳が分からない。
訳が分からない上に、羊飼いのこともパトラン先生のことも同時に言うものだから、羅紗屋の訴えは裁判長には理解できないものになる。加えて、パトラン先生はしらばっくれるし、羊飼いは言葉が通じない(これが演技である)しで、裁判長にはますます理解できないものになり、羅紗屋の訴えは却下される。
羅紗屋は強欲で弱者いじめをやらかすような人物で、いわば悪役である。この悪役がぐうの音も出ないほどやっつけられるというところに爽快感がある。しかし、本作はここで終わらない。もう一つどんでん返しが用意されている。
最後、もっとも地位も身分も低く、もっとも学のない羊飼いがパトラン先生を出し抜くのである。悪役がやられるだけでなく、身分の低い者が主人公の裏をかくところにもう一つの爽快感がある。
さて、中世はキリスト教の時代だったので、文学もその影響を受け、キリスト教の色合いの濃いものが多い。キリスト教的教訓を含むものが多いと思う。本作もそうだと思う。
まず、強欲で、不正直な商売をやり、尚且つ、搾取する人間(羅紗屋)は富を失うということである。
次に、人を弁護するという正義の仕事をしながらも、口車を武器に人を騙すような人間(つまり偽善家ということになろうか)もまた最後には富を失うのである。この立場の者が主人公なので、著者は偽善家に対してこの作品を書いたのかもしれないと僕は思った。
そして、欲もなく、争いごとを好まず、自分の仕事に素朴に忠実である人間(羊飼い)が最終的に富を得るのである。富とはどういうものであり、富を得るとはどういうことであるかを、羊飼いを通して、僕たちは学ぶことになる。
しかし、一方で、羅紗屋もパトラン先生も羊飼いも、どこかで人を騙すのであり、人間にさほど違いはないという主張も僕は感じてしまう。みんなどこかで善であり、どこかに悪を抱えているものなのかもしれない。
僕の唯我独断的読書評は4つ星半だ。あまり期待せずに読み始めただけに評価が甘くなり星が多くなってしまった気もしないではないが、それでも内容はとても面白いと思う。
<テキスト>
『ピエール・パトラン先生』
渡辺一夫 訳 岩波文庫
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)