T6-8>役割とアイデンティティ

 

(事例)

「まず、どういう理由でここに来るようになったのか、そういう辺りから話し始めてみてはいかがでしょうか」と、少しためらいを見せているE氏に私は提案しました。すると、E氏は積極的にこれまでの「病歴」を話されました。私にはそれがとても要領よく述べられているように感じたので、そのことをE氏に尋ねてみました。E氏は「きっと、こういう情報が必要になるだろうと思って、前もって準備してきました」と答えたのです。

 

(解説)

 もし、「うつ病」の根本的な問題は何ですかと尋ねられたとしたら、私は「役割をアイデンティティの全てにしてしまうところ」と答えるでしょう。そして、「それが生じるのはその人のアイデンティティがとても不鮮明で不確実だから」と続けるでしょう。

 役割を自分のアイデンティティの全てにしてしまうということは、相手個人や集団に対して速やかに同一化していく傾向を生み出します。「うつ病」者の中には退職後や会社の倒産後に「うつ病」に陥る人もおられるのですが、それは役割の喪失がそのままその人自身の喪失につながっているからであります。

 E氏は事前に準備をされているのです。E氏は自ら「患者役割」を積極的に担っていこうとしていることが窺えるのです。それも「良い患者」役割を取ろうとされているわけなのです。

 「うつ病」者にはこういう傾向が多かれ少なかれ見られることなのです。臨床家も彼らのこの傾向に助けられていることが多いと私は信じています。「うつ病」者は患者役割を引き受け、速やかに「治療者―患者」関係に身を置こうとするのです。だから、例えば治療者を試したりとか、駆け引きしたりとか、そういうことをしないのです。そういう段階を経ずに、速やかに「治療」の枠に入ってくれるという傾向があるように私は感じています。

 従って、「うつ病」者にとって必要なことは、「治療」への最初の一歩を踏み出すということであります。一歩、「治療」関係に踏み出せば、彼らはその枠に速やかに入ってくれるからであります。

 ここで、役割ということを少し説明しておきましょう。私たちは日常さまざまな場面で自分の役割というものを有しています。ある人は男性(これも役割を有する)であり、夫であり、父親であり、息子でもあります、会社では会社員であり、先輩であり、部下でもあ、私生活においても、町内会の役員であったり、草野球チームのピッチャーだったりするわけなのです。これらはすべて役割とみなすことができるのです。

 役割というものは、周囲からの期待に依るところが大きく、常に個人の自己の上に築かれるものです。つまり、根底には自己とかその人の核となる部分があるわけなのです。このことは素顔と仮面のような関係と理解してもいいでしょう。

 「うつ病」においては、その表面にあるもの、その人全体になってしまうのです。役割を自己の核にしなければならなくなるのです。

 例えば、ある「うつ病」男性は学校の先生でした。この人は、家庭でも地域でも、友人同士の集まりにおいても、常に学校の先生なのでした。学校の先生のようにしか振る舞えないのです。初対面の人であっても、彼が学校の先生をしているということが指摘できるのでした。どのような場面であっても、この男性は一つの役割で生きるしかなかったのです。一つの役割だけで生きてきたのでした。

 アイデンティティというのは、「自分である」とか「自分は何者である」といった感覚のことであります、人格的な、歴史的な同一性のことであります。私がお会いした「うつ病」者の中にはこういう感覚に乏しいという人が少なくありませんでした。「これが自分である」という感覚が非常に脆いために、外側の役割にしがみつかなくてはならず、その役割をもって、これが自分であるという形にしているのです。もし、しがみつくべき役割が得られないとすれば、その人は自己を喪失してしまうような、自分が何者でもなくなってしまうというような、そういう恐れに直面してしまうのです。

 いささか抽象的な話になってしまったかと思います。少し理解しづらいというように感じられた方もおられるかもしれません。後々、E氏の事例を追っていく中で、このことは何度も取り上げられることになるでしょうから、その都度、説明することにします。

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

PAGE TOP