<T6-7>心の過小評価
(事例)
「うつ病と診断されたことをどのように感じましたか」と、私はE氏に尋ねます。
その問いに対してE氏は、
「まさか自分がうつ病になるなんて、とても信じられなかった」
と答えました。そして、今でこそ自分の「うつ病」を認めているけれど、初めのうちはしばらくの間、自分が「うつ病」であることがどうしても信じられないでいたと話されました。
(解説)
E氏は「うつ病」という診断が信じられなかったと述べています。そして、多くの「うつ病」者が「まさか私がうつ病になるなんて(信じられない)」という感情を体験されているのです。この感情体験はどういうことを意味しているのかを考えてみましょう。
ここで私の個人的な体験を綴ることをお許しいただきたい。ある年の健康診断で、腎臓の働きがあまり良くないと私は医師から指摘されました。この指摘は私にはとても意外でした。胃腸や肝臓には注意していたのですが、まさか腎臓を指摘されるなんて、私は「思ってもみなかった」のです。
取り上げたいのは、この「思ってもみなかった」という感情がどうして私に生じたかということなのです。人間の身体には内臓があり、当然、腎臓もあるということを私は知識として知っています。私もまた身体を有する人間なので、私の身体に腎臓があるということも、観念としては、知っているわけなのです。
しかし、腎臓に関しては、肝臓や胃腸のように注意を払っていなくて、いわばノーマークだったのです。この比重の差は何から来ているのかと言いますと、私は腎臓に対しては肝臓等ほど重要視していなかったということなのです。
言い換えると、私の身体に腎臓があるということを知っておきながら、どこか腎臓は無視ないし軽視してきたのです。そういう軽視している部分を指摘されたものですから、あのような驚愕が生じたのです。
私の経験から、E氏のように、「うつ病(心の病)」の診断を貰って、それが信じられないというように驚愕するのは、どこか心のことを無視ないし軽視してきたのではないかと私は思うのです。実際、「うつ病」者の中にはそういう傾向のある人もよく見られるのです。
自分の心とか内面を軽視するということは、「心の過小評価」が生じているということなのです。
心の過小評価が生じるということは、その人はどのような生を送ってきたのでしょうか。それはつまり、自分の心や内面を軽視して、その分、自分の外側のことを重視してきたことを意味するのです。
私は「うつ病」を「病気」として捉えていないと述べました。それは一つの「生き方」であり、その人の「存在の在り方」として理解しているのです。そして、「うつ病」者の生き方というのは、そういうものであることが多いのです。「うつ病」者の多くは、自分の心や内面よりも、外側のことを重視し追求するという生き方を続けてこられたのです。このことは次節において、役割をアイデンティティのすべてにしてしまう傾向として、再度、取り上げる予定をしております。
外側のことを重視し、追求するということは、それだけ外側のことに依存しているということでもあり、また、内面が空虚であるということを意味している可能性もあるのです。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)