T6-22継続

 

(事例)

 こうして、およそ一時間、私とE氏は話し合いました。時間が来たので、先に進むのを置いて、この面接の振り返りをしたいと私は申し出ました。

 まず、ここで話し合って、どういう体験だったかをE氏に尋ねます。E氏は、今のところ、よく分からないけれど、こうやって話し合える場があるということは望ましいことのように思うと述べられました。

 また、来たいと思いますかと尋ねると、E氏は「ぜひ、お願いしたい」と答えました。

 そして、カウンセリングを続けていくことで、どのようなことを期待しているかを尋ねます。E氏は薬物療法には限界を感じているので、違った方法を試みなければならないと考えていると話、何を期待しているかは今の所よく分かっていないけれど、何かがありそうな気もしていますと答えられました。

 私も今後ともE氏とはお会いしたいと伝えました。カウンセリングを受けるというE氏の決断は正しかったと伝えました。なぜなら、私はE氏の考えを、自分に動きをもたらす必要があるというように受け取ったからです。薬は状態を安定化してくれていたけれど、もう少し内面的にも外的にも動いていく必要があるとE氏が考えているように私は理解したのです。

 そのためには、E氏が自分自身になっていくこと、そして、話していく過程で内面が動いていく必要があるということを伝えました。その他、細かな点はその都度話し合うことにして、次回の予約を取り、初回面接はこうして終了したのでした。

 

(解説)

 私のカウンセリングは一時間面接した後、少しだけ時間を取って、その回の振り返りをしたり、少し世間話などをするようにしています。これは私なりに理由があってそれをしているのです。

 E氏は自分自身に関する事柄を言葉にしていくことに困難を覚えているようです。彼には自分がどういうことを期待し、求めているかを言語化することが難しいようです。しかし、何となく、カウンセリングが良いものでありそうだと(前言語的に)思われているようであり、これがE氏にとってカウンセリングを継続する動機となっていったのです。カウンセリングの立場によっては、クライアントの期待や目的をもっと明確にする必要があると考える方もおられます。でも、こういう事柄は常に明確に言語化できるとも限らず、また、完全に意識化されているとも限らないので、私はあまりそこは追求しないようにしています。ただ、何となくであれ、このカウンセリングがそのクライアントにとって、多少なりとも良いものとして体験されていれば十分だと考えております。

 E氏は薬物療法に限界を感じておられます。薬というのは、それがどんな薬であれ、低いものを高めたり、高いものを低めたり、足りないものを補ったり、多すぎるものを排出したり、働き過ぎるものを抑制し、抑制されているものを活性化したりと、そういうことをしているのです。これはつまり状態を整えてくれていると理解するのが適切だと私は考えています。

 「薬では治らない」とE氏を始め、他の多くのクライアントからもそういう言葉を耳にするのですが、その言葉は一面において正しいのです。薬は望ましい状態へ整えてくれているだけであり、その間にその人がどういうことをするかということが次に問われるからであります。ここに「うつ病」に対するカウンセリングの意義があると私は考えています。

 「うつ病」には硬直した不動性の要素があります。動きや表情、感情とか感情表出、思考や気分など、それらに活き活きした部分が失われ、固まってしまったかのような体験を当人に与えたりします。周囲の人にもそれが感じられることがあり、ある「うつ病」者の家族の方は、その人を指して「銅像のようだ」と表現されました。これは、その「うつ病」者に、どれほど動きが喪失しているかを表しています。

 従って、「うつ病」者のカウンセリングにおいて、その人の中で動きが生じていくということが大切になるのです。それを話し合いを通じて行っていくのです。もちろん、話し合うという共同作業の目的はそれ一つではありませんが、「うつ病」者とのカウンセリングにおいては、そのことが一つの目的になるのです。話し合いの過程において、それを達成することを目指すのです。

 例えば、私たちが日常会話をしている時、話している最中に他の事を思い出したり、悩んでいた問題の解決や糸口が閃いたりすることはないでしょうか。それは心が動いているから生じる現象なのです。心が自由に動いている時にこそ、そういう現象が生じるわけなのです。望ましい対話は、お互いの心を甦らせ、活性化するものなのです。

 

(注)本項はE氏の初回面接の最終ページに挿入されるものでありました。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

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