<T6-14>語り
(事例)
E氏が話す事柄は、もっぱら最近の出来事に限られていました。それも出来事の羅列のような語り方をされています。この傾向は初期段階を通じて、一貫して見られる傾向でした。
話された経験に対して、私が「どのように感じましたか」とE氏に尋ねます。「辛いです」「イヤでした」「悲しくなりました」などと答えてくれるE氏でしたが、そこには感情が伴っていないようでした。
(解説)
E氏が語った内容に関しては後々記述していくことにして、ここではその語り方に注目したいと思います。
ここでなされた語り方は、ある意味では「うつ病」者に特徴的なものと言えるかもしれません。実際、「うつ病」者とのカウンセリングにおいて、クライアントが回復していくにつれて、彼らの語り方が変わってきているということに気付くのです。
E氏は出来事を羅列するかのような話し方をしています。出来事の羅列というのは、「こういうことがあって、相手にこういうことを言われて、こう言い返して、するとこうなって」といった感じのことであります。それはあたかもニュースキャスターが読む原稿のようでありました。
E氏は日常生活においていろんな出来事を体験しています。それを語ることもできます。しかし、なぜ、そのようにしか語れないのでしょうか。
今、便宜上、人間は心と身体を有しているという二元論を採用しましょう。身体は体験を媒介します。私たちは身体を通じて出来事を体験します。でも、そこには体験そのものしかありません。その体験に感情をもたらし、意味を付与し、体験を色づける働きをするのが心なのです。
例えば、あなたが仲の良かった旧友と久しぶりに会うとします。友と再会し、食事などをして、会話をします。身体があれば、あなたはそれをすることができます。しかし、その会話が愉しかった(感情)とか、快適だった(気分)とか、昔の自分を思い出した(意味)とか、そういう感覚をもたらしているのが心であるということです。
「うつ病」者の中には、そのような心の働きの部分が大きく欠如してしまっている人もあり、そのような人が自身の体験を語る際には身体的に体験された部分しか語ることができないのです。つまり、「昔の友達に会った。会話をした。一緒に食事をした」といった部分しか言葉にできないのです。
次のような極端な例も私は経験しています。ある三十代の女性「うつ病」者でしたが、彼女はそれまでの三十数年間の人生をほんの二、三分で語り終えたのです。彼女は、何々高校を出て、どこそこ大学に入ってという事実は語ることができるのです。しかし、高校生活がどんなものだったか、そこでどんなことを経験したか、大学に行ったことにどんな意味があったかといったことは語ることができなかったのです。あたかも履歴書のようにしか自分自身の人生を語ることができなかったのです。
その女性もそうでしたが、それは過去の記憶を失っているという意味ではありません。彼らは過去の記憶を、私たちが普通に有するように、保持されているのです。ただ、心の働きが停滞しているので、身体レベルでの体験の記憶しか語れないということなのです。
E氏にもそのような傾向が見られているわけです。ただ、E氏は自分の体験に対して「辛い」とか「嫌な感じがした」などと内面を語っているように聞こえます。それが真実味を帯びて聞こえないのは、それがそれを体験して「本当に辛かった」という意味ではなく、そういうことを体験したら「きっと辛いだろうな」という意味合いが濃いからであると私は思いました。つまり、辛いという感情体験をしたのではなく、頭で考えてそれは辛いだろうと答えているのです。頭で考えて、正解を導き出そうとしているのです。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)