<T026-07>衰退の道(7)~承認欲求なんてない
心理学の研究分野の一つに人間の欲求というものがある。人間はどんな欲求を持つのか、欲求はどのようにして生まれてくるのか、そうしたことを研究したりするわけだ。よく言われるのは欲求にはより低次(一次的、基本的、動物的ないしは根源的)な欲求から高次(社会的、複合的)な欲求まで階層を成しているといった考え方だ。
僕は欲求が階層的であることは認めるのだけど、欲求の種類というものに関しては無限にあると思っている。おそらく、人間はどんな欲求を持つのかといった、そういった種類の研究に取り組んでしまうと、不毛な結果になるだろうと思っている。あれもこれも、あらゆることに人間の欲求が属するからである。
さて、ここで取り上げたいのは「承認欲求」と呼ばれるものである。
誰かから承認されたいという欲求を人は持っていると主張する心理学者もある。僕はそれに関しては懐疑的である。はっきり言えば、人間には承認欲求なんてものはないと僕は信じている。承認欲求のように見えるだけで、それはもっと他の欲求であるかもしれない。僕はそう思うのだけど、そこに話を進める前にいくつかのことを押さえておこう。
まず、承認というのは注目とは異なるという点だけは押さえておきたいのだ。注目されることは承認されることとは意味が異なるのである。従って、人間には承認欲求があるから目立つことをやって注目を浴びたくなるのだといった論理は、少なくとも僕の観点では、成立しないのである。
また、承認は個人に対してなされるよりかは、その個人が差し出したモノに対して承認がなされるのだ。それは業績であったり、作品であったり、なにかしらの行為であったりするのだけど、承認はそれらに対してなされるものである。個人が承認されているとは限らないわけである。
音楽家が世界的に承認されているというような場合、承認されているのは彼個人ではなく、彼の音楽なり演奏である。個人が承認されるということは、あり得ないとまでは言わないのだけど、滅多にないことだと思う。
その意味において、承認は称賛とも異なっているわけだ。その人の作品が称賛されることは、その人が承認されているというわけでもないと僕は思うのである。つまり、「いいね」をどれだけ獲得しようと、フォロワーをどれだけ従えようと、それはその個人が承認されているのではない。彼の投稿する動画などに対して、せいぜい称賛か称賛に似た何かを得ているということである。
しかしながら、注目を浴びることも、称賛されることも、承認とまったく無関係でもないようにも思われる。なんとなく僕が矛盾したことを言っているように聞こえるかもしれないけど、この矛盾を解消するには承認の意味をもう少し見る必要がある。
僕が承認されるためには、僕は承認される場に出なければならない。つまり人の中に出て、社会に出なければならない。そうでなければ僕が承認されることなんてあり得ないからである。そこには多少なりとも注目を集める場面や称賛される場面というものもあるだろうとは思うのだけど、それがメインの目標ではないのだ。
つまり、承認欲求とは何よりも社会に出たいという欲求、言い換えれば人間界に所属したいという欲求なのである。承認は二次的な獲得物であると僕は考えている。実現しなければならないのは承認されることではなくて、人間社会の一員になるということである。人間界の中で生きるという欲求の方が、承認欲求(があるとすればだけど)よりも根源的でなければならないのである。
もし、人間界で生きることを放棄して、それでいて承認だけを求めるというのであれば、それは単に認知されているだけに過ぎない。道端に石ころが落ちているとしよう。あそこに石ころがあるなと僕は認知する。それは石ころの存在を認知したというだけであって、石ころの何かを承認しているというわけではないのだ。
もし、「認められたい」ということが、「人々の一員になりたい」という欲求を欠き、単に「認知されたい」というだけのことであれば、そんなものは承認欲求とは言えないのである。が、仮にそれを承認欲求と呼ぶとすれば、それは堕落した承認欲求なのだと僕は思う。
人間には承認欲求なんてものはない。これが僕の基本視点である。承認を求めるよりも、人間社会に属したいという欲求、人間でありたいという欲求の方が優先する。承認されることよりも、自分の能力や才能を活用したいという欲求の方が先にある。承認なんてあくまでも付随物にすぎず、その付随物でしかないものを、それよりも優先される欲求以上に過大視するとすれば、僕たちは本当に大切で、根源的なものから隔絶した存在になってしまうのではないだろうか。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)