<T026-05>衰退の道(5)~退化論
バイトテロと称される諸行為は、動画に撮られ、ネット上に公表される。つまり、それらのテロ行為は隠密的になされる行為ではないのだ。彼らはそれを当然の如く公表する。その報酬として彼らが得るのは何であろうか。人気だろうか、注目だろうか、それとも単に炎上だろうか。いずれであっても、それは彼らにとって如何ほどの意味があるのだろうか。
ある社会学者が言っていた。かつては「必要は発明の母」であったものが、今や「発明は必要の母」になったと。僕は言い得て妙だと思う。こういうものがあったらいいなという思いから何かが開発されるのではなく、ユーザーのニーズ抜きにして何かが一方的に開発されるのだ。そして開発されたものを人々は求めるようになるのだ。そうして手に入れた新しい開発品を、人は自分の自我の程度に応じた使い方をする。つまり、開発者が想定しなかったような使い方をユーザーが開拓していくのだけど、それはそのユーザーの自我程度に応じた開拓であるということである。
技術が進歩して、便利なものが増えたとしても、我々人間が進化していないのであれば、それらは無用の長物である。僕はそう思う。そして、そうしたツールが人を進歩させるのかというと、必ずしもそうとは言えない。ネットなどのツールは人を退化させるものだと僕は信じている。
僕も古臭い人間で、何か調べようと思ったらまず文献を紐解く。時には図書館なんかに足を運ぶこともある。今、何かを調べようとするときにはまずネットで検索するという人が多いようだ。これが本当に便利なことであるかどうかは僕には何とも言えない。
ただ、調べる対象に対して、文献を紐解くといった行為は積極的なものである。ネット検索ではどうだろうか。ネットで検索すると、自動的に僕の前に情報が差し出される。せいぜい、その情報のどれを読むかを僕は選ぶだけである。ネット検索の方がはるかに受動的であり、無行動的である。
この感覚が身についてしまうと、自ら動いて目的物を獲得しようとする人間は愚かであり、差し出されたものを巧みに選択する人間が賢くて、且つ、正しいということになる。極端に言うと、強奪する人間が一番正しいということになる。だから詐欺のような人間が後を絶たないのである。自分から金儲けをせず、金儲けをしたカモを選ぶだけなのだ。
こうした傾向がすでに生まれていると僕は感じているのだけど、これは人間の退化そのものである。おそらく、原始の人類は食いたきゃ食い、女を欲しくなったら奪い、他人のものであっても自分の欲望を満たすために強奪するといった生活を営んでいただろう。まあ、こういうのは誰もそれを見たことがないので想像でしかないのだけど、でも、そういうことが相次いだから人はルールを作るようになったのではないだろうか。
ルールを作成するということは、他人に対しての関心を持つということにつながるのだ。例えば、相手が自分よりも優れた道具を持っているとしよう。それを欲しいと思う。そこで相手から奪っちまえばいいということであれば、その相手に関心を持つ必要はないのだ。相手がいいものを持っていて、それを奪ってはいけないというルールを守るとき、彼はいい道具を獲得したなあ、どうやってそれを作ったのだろう、彼はいいなあなどといった相手に関するさまざまな感情が生まれるものではないだろうか。
相手に対する感情、関心が生まれ、そこから他者に対する尊重も生まれてきたのではないだろうか。正確に言えば自他に対する尊重である。他人のものを侵害しない、同じように自分のものも侵害されないという感覚が生まれてくるものではないだろうか。
バイトテロたちの映像が僕に衝撃を与えるのは、彼らから伝わってくる無関心さであり、原始心性である。この衝撃は、ちょうどプレコックス感と同種のものであると僕には体感されている。
プレコックス感というのは、精神病者と対面した時に医師に生じる感情のことである。何かぞっとするような感情のことである。この感情の有無で診断がかなり確定されることもある。実際、過去においてはこれを診断の有力な手掛かりとしていた時期もあった。今では、この感情に基づいて診断がなされるわけではないけれど、こういう感情を経験する機会が臨床家から失われたわけではない。過去において、僕も何人かの人に対してプレコックス感のような感情を経験したことがある。
このプレコックス感という感覚は、あまりいい比喩ではないけれど、あまりに異質なものを見た時に受ける衝撃感を思い出していただくとわかりやすいかと思う。例えば奇形の魚などが発見された時などである。その奇形魚が、僕たちが常識的に抱いている魚のイメージから大きくかけ離れているほど、僕たちがそれを見た時に受ける衝撃は大きいだろうと思う。プレコックス感とはその種の経験と似ているということである。
人に対してプレコックス感を抱くということは、その人が人間として共通の何かを失っているということを表わしている。どこか異質というか異種の人類に出会ったかのような感覚に陥る。同じ人間なんだけど何かが違うっていう、そういう感情であるわけだ。バイトテロたちの映像を見て僕が体験した感情もそういう種類のものであるということだ。
人間として何かが失われているのだ。それは人間が進化・進歩してきた過程で身に着けてきたものだ。それが失われるということは、退化を意味しているように僕には思われるのだ。
(付記)
本項でのプレコックス感情に関する記述は僕の個人的な見解を含んでいる。プレコックス感について学びたい人は、『岩波講座 精神の科学別巻~諸外国の研究状況と展望』(岩波書店)に、この概念の提唱者であるリュムケ自身の論文、「プレコックス感」(H・C・リュムケ)が収録されているので、参照されるとよろしいかと思います。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)