<T024-9>高槻カウンセリングセンター便り集(9) 

 

(本ページの内容) 

・高槻カウンセリングセンター便り~25通目:自分を律する 

・高槻カウンセリングセンター便り~26通目:述語優位の思考 

・高槻カウンセリングセンター便り~27通目:自殺のサイン 

・終わりに 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~25通目:自分を律する> 

 

 心の病が顕在化する一つの典型的な場面があります。それは自分を律しなければならない場面であります。 

 自分を律する場面において、その人の「病理」が明らかになったり、その場面を契機として症状や問題行動が「反復」「再燃」するということも生じます。さらに、その場面が現状認知や予防にとっても参考となる場合もあります。 

 

 自分を律するというのは、「今はAをすべき時であって、Bをすべきではない、だからBをしたい気持ちを抑えてでもAをする」、そういうことができるということであります。 

 

 例えば、毎朝9時に出社する人がいるとしましょう。 

 この人が9時の出社に間に合うように準備できるのは、この人が自分を律することができているからであります。 

 もし、アクシデントとかがなくて、この人がいつも通りに起きて、いつも通りに準備しているのにも関わらず、9時に間に合わなくなるとすれば、どこか自分を律することができていないことが窺われるのであります。 

 さらに進んで、この人が、目覚めていても起床できなかったり、準備をしようとしても捗らなくてできない、ということになると、自分を律することがかなり障害されているということになるわけであります。 

 

 上の話との関連で、少し余談だけれど、ある母親がギリギリに家を出て学校に行く子供のことを心配していました。この子はギリギリまで起きてこないのですが、一旦起きるや猛烈なスピードで準備をして登校するのだそうです。そして、これまで遅刻はないそうであります。 

 私の観点では、この子は必要な時には自分を律することができているのであります。必要な時に能力を発揮できるというのも能力の一つであります。だから私はこの子が病的であるようには見えないのであります。 

 ただし、この子がいつも通りにやっているのに遅刻するようになったら要注意であります。 

 

 一方、登校中に迷いネコを見つけて、それを飼い主のもとへ届けているうちに、無断で学校を休んだという生徒の方がちょっと心配になるのです。この人は転導性が高い(他へ逸れやすいということ)ことが窺われて、どこか自分を律することが困難なのではないかと思ってしまうのであります。 

 

 他に分かりやすい例として、仕事の合間の休憩時間にお喋りしていて、そのまま仕事に戻れなくなったという人を知っています。休憩時間が終わって仕事を再開することがこの人はできなくなったのであります。 

 

 自分を律することができなくなると、約束事や決まり事を守ることが困難になります。自分自身の精神状態をそういうところでチェックしてみるのもいいかもしれません。 

(2022.7.11) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~26通目:述語優位の思考> 

 

 世間を騒がせる事件などが起きると、あの犯人をどう思うかなどと尋ねられて、僕は辟易することがある。 

 マスコミの報道だけでは何も言えないというのが実情である。知りたい情報がマスコミでは報道されないのである、 

 

 安倍元首相の射殺事件では、某宗教団体(以下教団)と安倍(以下アベ)とが、容疑者の中でどうして関連付けられたのかが分からないといった声をテレビなどで僕は耳にする。 

 そのような関連付け(または同一視)は、心理臨床家にとっては珍しいことではない。 

 そこにはいくつものパターンがあるけれど、今日は一つだけ取り上げよう。 

 

 もちろん、あの容疑者がそのように考えたかどうかは不明であるが、仮の話、架空の話として進めよう。 

 あの容疑者に次の二つの観念があったとしよう。 

 ①教団は寄付と称して母を破産させた(母を不幸にした)。 

 ②アベは増税をして国民を破産させた(国民を不幸にした)。。 

 二つの観念はまったく別の事柄を指している。主語が、一方は教団であり、他方はアベであるからである。 

 しかし、述語の部分(「破産させた」)で両者は同一である。この述語の同一性から両者が関連づけられることもあるわけである。 

 精神病的な思考においては、主語や主体よりも、述語が優位になると言われる。主体の個別性は失われ、述語が同一であれば、主体は置き換えが可能になるのである。 

 

 父親がとても怖かったという人がいるとしよう。その人が僕(寺戸)のことも怖がっているとしよう。 

 健全な人なら「父は怖かったが、寺戸も怖い」などと言うでしょう。この人の中では、父と僕とが明確に区別されているだけでなく、両者において体験されていること(怖い)にも区別がついていることが窺われます。 

 神経症的な人になると、「あなた(寺戸)は父のようだ」と言うでしょう。ここでは述語部分での共通性がより強調されている上に、父と僕とがこの人の中で重なりはじめていることが分かります。それでもある程度の区別がなされていることも窺われるのです。 

 これが精神病になると、こう言うのである。「あなた(寺戸)は私の父親だ」と。 

 こんなことを言われたら面食らってしまうが、いくら私が父親ではないと訴えてもこの人には伝わらないのである。ちなみにこの修正不能性もまた症状なのである。 

 

 アベを撃った犯人の中でどういうことが起きていたのかは分からないけれど、無関係の両者が不当に関連付けられるということは臨床の世界ではお馴染みの光景である。自己が確立できていない人にほど、そういうことが起きるのであります。だから、僕にはそれほど特別なことには見えないのである。 

(2022.7.13) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~27通目:自殺のサイン>

 

 自殺者は自殺を決行する前にサインを出すという通説がある。この通説が遺族を苦しませることもある。 

 

 まず、自殺のサインと称されるものは確かにあるとは僕も思う。 

 しかし、サインと行為とが常に直結するとは限らないのである。つまり、自殺のサインと評価される現象が見られても、自殺が生じない場合もあるわけである。 

 また、衝動的というか突発的な自殺に関しては、サインすら発せられないか、周囲の人がサインを受け取る間もないということも起きる。そういう経験をした人がクライアントにもおられるのである。 

 さらに言えば、サインは後から気づかれることの方が圧倒的に多いと僕は思っている。その時には気づかれないことが多く、それで普通のことであると僕は考えている。 

 というのは、こういうサインは道路標識のように認識されるのではないからである。もっとシンクロニシティな体験として察知されるものであると僕は信じている。サインを発する側と受け取る側とで心的な一致が生じない限り、サインをサインとして認識できないだろうと僕は思うわけである。 

 ともかく、自殺者がサインを発するとしても、それに気づくというのは、一般の人が信じている以上に、至難の業であると僕は考えている。 

 

 日本では、年間の自殺者が3万人を超えることが何年も続いた。細かい話は省くけれど、現在もその事情はほとんど変わっていないと僕は信じている。 

 それはさておき、年間3万人もの人がサインを発していながら自殺が決行されてしまうとすれば、それだけサインに気づくことのできなかった人たちがおられるということなのである。あくまでも想定の話ではあるけれど、それだけサインは気づかれないものであるということの証拠である。気づくことのできないのが普通であるのだ。そして、それに気づくということは相当困難なことなのである。 

 

 自殺遺族は自殺者のサインに気づくことのできなかった自分を責めることが多い。その心情は頷けるとしても、サインとはそれだけ気づくことの困難なものであるということを僕は述べたいのである。 

 この自責感情は自殺者との関係の在り方の一つである。自責感情を通して、遺族は自殺者との関係を維持しているとみなせるわけである。 

 この関係の在り方を変えなければならないのである。 

 自責感情とか罪悪感というものは、どんな場面であれ、その人が本当にしなければならないことを見えなくするものである。いかなる発展も拒み、その人を一時点に束縛するのである。 

 自殺であろうとなかろうと、故人のためにできることはいくらでもあるのである。相手が死んでも、相手との関係は私の中で生き続け、持続し、発展させていくことができるのである。 

 自責感情に襲われ続ける遺族はその道を閉ざしてしまうわけである。これでは故人も浮かばれないように思うのは僕だけだろうか。 

(2022.7.19) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

<終わりに> 

 本項では、高槻カウンセリングセンター便りの25,26,27通目を掲載しました。それぞれ個別の内容となっています。 

 25通目は自分を律する場面で病理が噴き出すということなのですが、自分を律するというのは心的エネルギーをかなり消耗するのであります。あまり意識することはないかもしれませんが、丁寧に観察すると、けっこうたいへんな作業なのだということに思い至るのであります。 

 26通目は、当時は阿部元首相の射殺事件でマスコミが騒いでいた時期でした。あの事件についてどう思いますかとか、あの犯人はどういう人なのでしょうかとか、そんな問いをされるのだから僕としても困ったものである。「そんなこと分からん」としか答えようがないものであります。本文では述語の重複性から同一視が生じるということ、そのような思考で説明をしました。その頃はまだアベと教団との関係が不明瞭でありました。両者の密接な関係が明るみになるほど、アベを撃った犯人はそれほど病的な思考をしていないと思うようにもなりました。 

 27通目は自殺に関すること、特に自殺のサインに関するものでした。自殺者は自殺を決行する前にサインを出すという通説がどれほど自殺遺族を苦しめていることか。その思いから書いたものでした。 

(2023年7月) 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

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