<T024-8>高槻カウンセリングセンター便り集(8)
(本ページの内容)
・高槻カウンセリングセンター便り~22通目:医師との同一視
・高槻カウンセリングセンター便り~23通目:範疇化の話
・高槻カウンセリングセンター便り~24通目:流す面接と決める面接
・終わりに
<高槻カウンセリングセンター便り~22通目:医師との同一視 >
センターが医療機関ではないことを明記してください。
HP制作会社さんからそう注文されたことがあります。一応、それは明記しておくのだけれど、見る人はすぐにそのことが分かるものです。
心理学は人間のあらゆる現象にその研究対象があり、心の病も研究分野の一つなのです。ここにおいて精神医学と領域が重なるのです。
領域は重なっても、精神科医とカウンセラーとは仕事が違うのです。私の見解では、「私の病」を取り上げるのが医学であり、「病の私」を取り上げるのが心理学並びに哲学であると考えています。
本来、医師とカウンセラーとが対立するはずがないのです。
領域が重なるということで、カウンセラーが医師と同一視されることもあります。たいていは両者の違いを知らないというところからくる誤解であります。そういう人は、その誤解を解かれると、カウンセラーは医師ではないということを受け入れることができるのです。
ただ、いくら明記しても、両者を同一視する人は現れるでしょう。
その場合、その人の願望がそこに投影されていることが多いと私は考えています。その人にとって「医師」が意味するところのものをカウンセラーに投影して、カウンセラーにも「医師」が表しているものが備わっているように見えるので、その人の心の中でカウンセラーが医師と同一視されるわけであります。
また、カテゴリー化が不安定な人も中にはおられるのであります。例えば、医師は「治す人」であれば、カウンセラーも「治す人」であり、それならカウンセラーは医師になるはずだ、といった認識に至るような人もおられるということであります。
この場合、「治す人」には、医師もいれば、心理学者もあり、宗教家や修理屋さんまで含まれるかもしれません。「治す人」という大きな括りの下位分類として医師とかカウンセラーとかいった人たちが含まれているわけです。こういうカテゴリー化が混乱しているような人もおられるということであります。
混乱しているので、医師は「治す人」、カウンセラーも「治す人」、それならカウンセラーも医師であるはずだ、そうでないならそのカウンセラーはおかしい、医師でないカウンセラーはあり得ない、一体そのカウンセラーは何者だ、などと思考が展開していくわけであります。この混乱を終わらせるためには、医師とカウンセラーが必ず同一視されなければならず、その同一視から外れるカウンセラーは何か得体の知れない人、存在してはいけない人とみなされることにもなり得るのであります。
いずれにしても、私は医師ではなく、高槻カウンセリングセンターも医療機関ではないと、いくら強調しても、必ず医師とカウンセラーを同一視する人が現れるものであると私は考えています。HP制作会社の指示に従ってそこを明記したとしても、必ず医師と同一視する人が出てくるものです。まことに、HP会社は無駄なことばかりやらせるものだと思います。
でも、一応、繰り返しておきましょう。私は医師ではなく、当センターも医療機関ではありません。
(2022.7.2)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<高槻カウンセリングセンター便り~23通目:範疇化の話>
前回、範疇化(カテゴリー化)が不安定な人がいるということに触れたけれど、今日はその説明をしておこう。
例えば、椅子があるとしよう。事務椅子、パイプ椅子、座椅子、ベンチなど、さまざまな形状のものがあるけど、僕たちはそれを「椅子」として認識する。
ベッドもまたさまざまな形のものがあるけれど、僕たちはそれを「ベッド」として認識する。
どのような形のものであれ、椅子は椅子のカテゴリーに、ベッドはベッドのカテゴリーに入れて認識しているわけだ。
用途というカテゴリーを見てみよう。
椅子は人が座るものであり、ベッドは人が寝るものである。用途という観点に立てば、両者はそれぞれ違うものということになる。
しかし、「家具」というカテゴリーで見た場合、椅子もベッドもともに家具の範疇に含まれる。
ここで混乱する人があるというわけだ。さっきは椅子とベッドは違うって言ったのに、なぜここでは椅子とベッドが同じなのか、と疑問を覚えるわけである。
さらに絵画を付け加えよう。椅子とベッドは家具の範疇に入ることは分かるが、絵画は家具とは言えない。だから、家具の範疇に含まれるものと絵画とは別物ということになる。
そこで、「室内装飾」というカテゴリーで見てみよう。椅子もベッドも室内装飾品となるし、絵画もまたそうである。そうなると、椅子もベッドも絵画も室内装飾としては同じ範疇に入るということになる。
やはり困惑する人がおられるわけだ。絵画は家具ではないのに、どうしてここでは絵画が家具と同じになるのか、理解できないということになる。
範疇化が不安定であるという人は、外界がかなり混乱すると僕は思う。さっきはAとBが違うと言っておきながら、次の瞬間にはAとBが同じであると言われる、そんな体験をする人もある。さっきと言っていることが違うなどと憤慨される方もおられる。
例では椅子とかベッド、絵画など具体的事物であったけれど、これが言葉である場合もある。相手のその言葉がどのカテゴリーに属する言葉であるかが分からないのである。そうすると、さっきはこう言って、次は違うことを言って、矛盾しているではないか、どうすればいいんだと悩まれることになる。
これは抽象化する能力が弱っているのである。
例では、椅子、ベッド、絵画は具体的事物であるが、「家具」「室内装飾品」というのは抽象概念である。さっきは別物だったのにここでは同じになるというのも、抽象化できれば矛盾なく解消できるわけである。
抽象化されないので、事物の表面的な部分、言葉の字義通りの部分のみで判断してしまうのである。僕はそう考えている。
(2022.7.3)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<高槻カウンセリングセンター便り~24通目:流す面接と決める面接>
カウンセリング(面接)には流す面接と決める面接とがある。
流す面接とは、現状維持的であるが、足場を固めたり、方向性を再確認するといった活動を含むものである。
決める面接とは、その名の通り何かを決める面接であり、決断したり方向性を定めたりといった活動を含むものである。
一回の面接には両方の要素が含まれるが、どちらかがより優勢であることが多い。そのため、今回は流す面接だったとか、どちらかと言えば決める面接であった、などと評価できるのである。
大切なことは、流す面接がなければ決める面接が決まらないのである。これに関してはいつか詳しく述べたいと思う。
決める時だけ受けますという人もある。これはつまり、しんどくなったら受けますということだ。一見すると合理的であるかのような印象を与えるかもしれないけれど、この思考には陥穽がある。そして、これは「治らない人」が陥る思考である。
というのは、それをした場合、しんどい体験とカウンセリングとが観念連合して、カウンセリングそのものがしんどい体験(をする場)として学習が成立してしまうからである。「苦しい体験=カウンセリング」という図式がその人の中で完成してしまうということである。
僕の場合、歯科医がそうだ。歯が痛くなったら受ける場所となっているので、とかく痛いというイメージが先行してしまうのだ。だからできる限り行きたくないと思ってしまう。でも、口腔ケアなどで日ごろから歯科医を利用している人ではそんなことはないようである。
次に押さえておきたいことは、継続するカウンセリングにおいて、流す面接を入れるとクライアントの負担が減少し、それを省くとクライアントの負担は大きくなる、ということである。
カウンセリングを受けるたびに何かを決定しなければならないとしたら、それこそカウンセリングが負担になるだろう、ということである。
「治る人」は、流す面接においても何かを得るものである。決してそれを無駄とか無意味とか評価しないのである。一回一回を大切にするクライアントは流す面接をも受け入れるのである。
以上を踏まえて、「治る人」はカウンセリングからくる負担を減らしつつ継続するのであるが、「治らない人」はその負担を増大させながら継続するのである。だから後者は続けられなくなるのだ。
(2022.6.8)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<終わりに>
高槻カウンセリングセンター便りの第22通目から24通目を掲載しました。
22通目と23通目とは、それぞれ「範疇化」という概念を取り上げています。私自身が読み返してもあまり内容的にまとまっていないという印象が拭えないのであります。例えば、周囲から見るとそれは暴力というカテゴリーに入るものなのだけれど、暴力を受けている当人はそれを暴力として体験していないとすれば、それは範疇化(カテゴライズ)に違いがあるということを意味しているわけであります。そういう内容のことを書こうと試みたものでした。
24通目は面接に関するものです。後に展開することになる「治る人・治らない人」のテーマを先取りしたものになりました。
(2023年7月)
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)