<T024-5>高槻カウンセリングセンター便り集(5)
(本ページの内容)
・高槻カウンセリングセンター便り~13通目:「利き手の話」
・高槻カウンセリングセンター便り~14通目:「創造性の人」
・高槻カウンセリングセンター便り~15通目:「名医を探す人」
・終わりに
<高槻カウンセリングセンター便り~13通目:「利き手の話」>
世間で言うところの「左利き」の人がいる。
僕もそうだ。書字を含む2,3のものは右手でするが、その他はすべて左手でする。
道具の多くは右手用に作られている。それらはなんとか左手で使用することも可能である。
一番困るのが、初めて触る道具である。どちらの手で持ったらよいかで悩んでしまう。20歳ころに生まれて初めてテニスというものをやったのだけれど、ラケットをどっちの手に持ったらよいかで迷ったのを覚えている。
最初は違和感はあるけれど、右手で持つと、やがて右手で慣れるということもある。慣れても左手の方がやりやすいという思いは払しょくされないけれど。
左利きの人は右脳が発達していて、発想に優れているとか、芸術的な才に長けているとか、そんなことも言われているが、「左利き」の僕からすると、まったく自分ではそうは思わない。けっこうなガセネタではないかと思っている。
生理学的研究は経験と一致しないことなんてざらにあるように僕は感じている。生理学的にそうと言われているとしても、体験的にそれを実感することなんてない。そういうものも結構多いということだ。
「左利き」は子供のころからだ。その後の人生において何人も「左利き」の人を目にする機会があった。
彼らを見ていると、結局のところ、「左利き」なんてものは存在しないのだという確信をますます強くする。どの「左利き」の人も、程度の差はあるけれど、「両手利き」になっているのである。
僕は少しばかり安心する。左なら左と決めなければならないといった固定観念がなくなってくる。左で決定したから何もかも左で、と考えていた時期もあるのだけれど、もはやそんなけったいな拘りもなくなってきた。
つまり、左でも右でもどっちでもいいじゃないか、といった気持ちになっている。案外、「左利き」と称される人たちはそんな感じなのかもしれない。
右利きの人は、自然と右手を使うのだろう。左利きの人は、左手を使い、時と場合に応じて右手も使用するのだろう。
大事なことは、どちらかの手に決めなければならないという拘束から自由になることにあるようだ。僕はまた一つ学んだ気がする。
(2022.6.17)
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<高槻カウンセリングセンター便り~14通目:「創造性の人」>
カウンセリングを継続して受けて、尚且つ上手くいく人は、「治る」「改善」するだけでなく、創造性も高まる。
何も不思議な話ではない。「治る」「改善する」ということと「創造的に生きる」ということとは表裏一体の関係だからである。
創造性と言っても非常に幅広い概念であって、このスペースで述べきれるものではない。ごく基礎的な部分だけ今回は触れておこうと思う。
創造性の基礎とは、無関係の複数の事柄につながりを見出すことにある。AとBという別種の事柄において、共通項Xを見出すことである。これが創造の基礎となるわけだ。
例えば、クイズなんかでもよく見かけることと思うのだけれど、「ブルー」「スモーク」「粉」といった個別の単語が提示される。答えは「チーズ」である。それら三種の単語はチーズによってつながりを持つことになる。共通項、関連項を見出していくこと、これが創造性の根本にあるというわけである。
しばしばクライアントは言う。「あれとこれとがこんなふうに関係していたなんて気づかなかった」と。こういう体験は、「気づき」とか「洞察」と呼ばれている現象であるが、これは創造性にも関係しているのである。
分かりやすくするために簡潔な言い方をするのだけれど、自分の中にあるものはすべて相互に関連しあっているのである。
その関連が意識化されていくことが洞察である。
自分の中にあるものが個別に存在しているのではなく、すべてが相互に連関しあっている時、その人には一つの統一がもたらされることになる。
この統一がその人の自我の強さにつながっていくわけである。
僕はそんなふうに考えている。
従って、「これは問題と関係がないから話しません」というクライアントは、やはり「治らない人」に属するのである。
また、ここには、それを何と関係づけるべきであって、何と関係づけてはいけないかといったテーマも絡んでくるのだけれど、そこは今回は省略させてもらおう。
僕たちは誰もが自分の生を創造していくことが求められる。生きるということはそういうことである。今日一日をどんな一日として作り上げていきたいか、その積み重ねになるのである。生きるとは創造的に生きるということなのだと僕は思う。
僕もまた今日という一日を創造していくつもりでいる。
(2022.6.18)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<高槻カウンセリングセンター便り~15通目:「名医を探す人」>
「どれくらいの人が良くなっていますか」
こんな質問を受けることがある。
僕としてはカウンセリングを継続した人のほとんどがそれなりに良くなっているとしか言いようがない。
この問いに正確に答えようとすれば、クライアント全員の追跡調査をしなければならない。とてもそこまでは手が回らないし、する気もない。
また、「良くなる」の意味が僕と質問者との間では異なっているだろう。「良くなる」の共通の定義を持っていないかもしれないのである。そのこともまたその質問に答えられない理由の一つである。
それでも、ほとんど100%の人がカウンセリングから有益な何かを得ていると僕は確信している。
ただ、それに気づいていないクライアントや、それを拒否するクライアントもけっこうおられる。もったいない話だと思う。
ところで、一般の人は「治癒率」と「(治療の)成功率」を混同していることがあるように思う。
例えば、施術は成功したけれど、患者さんは治りませんでしたという場合、このケースは治癒には数えられないけれど、治療成功にはカウントできるのである。
冒頭の質問をする人も、自分がどちらを尋ねているのか区別していないかもしれない。おそらく、「治癒率」の方を指しているのだろうけれど、こちらは「成功率」の方で答えてもいいわけだ。
ちなみに上述の区別は他の領域でも見られるように思う。
例えば、その占いの的中率が100%だと謳っているとしよう。それは占いの的中した率を示しているだけで、その占いによって救われた人の数は示されていないのである。
ダイエット食品の売上ナンバーワンといった文句は、ダイエット成功者の数を反映していないのである。
話を戻そう。
冒頭に挙げたような質問をする人はいわば「名医」を探している人たちなのだと思う。
名医を探す人は、同時に「悪者」も探すものだ。両者は共通の心理であるからである。
その人が「治らない」とすれば、その人はもっと違うところに取り組まなければならないようだ。名医を探すという行為がすでに症状の一環であるかもしれないからである。
(2022.6.19)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<終わりに>
今回は13通目から15通目の三通を掲載しました。
13通目は利き手の話です。私は左利きです。そのためか同じ左利きの人を見るとつぶさに観察してしまうのです。結局、左利きというものは存在せず、右利きの人と両手利きの人とがいるだけなのだという思いを強めるのです。面白いと私が思うのは、右利きはみな同じなのですが、両手利きは人によって違いがあるということです。何を右手でやり、何を左手でするか、そこに個人差があるのです。そういうのを見ていると面白いとも思うのです。
14通目は創造性についてです。「治る人」は創造的に「治る」と私は信じています。治癒は、もたらされるのではなく、創造されるものであるとも考えています。それだけに創造性は私にとってはとても大きなテーマとなっています。このテーマに関して、序論のような内容を述べてみました。
15通目は「治癒率」と「治療成功率」に関してです。一般の人はまずこの両者を区別していないように私は思うのです。「治療成功率100%」とは、患者さんの100%が治ったということを意味していないのであります。本文で述べたように、「手術は成功しました、でも患者は助かりませんでした」というケースも治療成功例とみなすことができるのであります。これは、治癒率は患者に属しており、治療成功率は治療者に属しているものとして捉えると理解しやすいかと思います。
(2023年7月)
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)