<T024-4>高槻カウンセリングセンター便り集(4) 

 

(本ページの内容) 

・高槻カウンセリングセンター便り~10通目:「天才と狂人の紙一重」 

・高槻カウンセリングセンター便り~11通目:「反抗期を嘆く人」 

・高槻カウンセリングセンター便り~12通目:「引きこもり者の回り道」 

・終わりに 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~10通目:「天才と狂人の紙一重」> 

 

 天才と狂人は紙一重などと昔から言いますが、この紙一重の部分には雲泥の差があるものです。 

 両者はどちらも平均から逸脱しているという点では共通であります。その意味では天才も狂人も「異常」であると言うことができそうであります。 

 天才も狂人も、普通よりはるかに「異常」であるかもしれません。しかし、天才の方は普通以上に「正常」でもあるのであります。 

 つまり、狂人は異常な方が突出していて、正常の方はほとんど見られないのであります。しかし、天才は異常も正常もどちらも突出しているわけであります。 

 芸術家を例にするとわかりやすいでしょうか。彼らは普通の人では創れないような作品を創るのであります。ここに関しては天才と狂人に差はないかもしれません。 

 しかし、正常な部分が突出しているが故に、その作品は多くの人に感動をもたらし、多くの人の共感を得るのであります。 

 

 「そんな能力があるのなら、それをもっと人のために役立てたらいいのに」 

 ある報道番組でのコメンテーターの言葉であります。詐欺事件かなにかの犯人を評してそうコメントされたのでした。 

 それができるのが天才であり、できないのが狂人である。私の考えを端的に言うとそういうことであります。狂人にも特異な能力や才能があるとしても、正常な部分が欠けているために、人の役に立つためにそれらを駆使することができないのであります。私はそのように考えています。 

 

 今回のテーマに則していえば、狂人を正常にするのが医学の目的であり、狂人を天才にするのがカウンセリングの目的である、と私は考えています。 

 人はそれぞれ自分の能力とか才能といったものを持っています。心とか精神が健全でなければ、能力や才能も開花せず、せっかくの能力も才能も、自他の破滅や破壊に奉仕するようになってしまうと思います。 

 

 カウンセリングを通して、自己を発揮できる人が一人でも増えることを私は願っています。 

(2022.6.13) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~11通目:「反抗期を嘆く人」> 

 

 「自分には反抗期がありませんでした」 

 青年時代を振り返って、そのように嘆く人がいらっしゃる。 

 人がどのような青年時代を生きたかは人それぞれでしょうから、ここではそうした個人差には踏み込まないことにします。 

 今回は二つの点だけを押さえておきたいと思います。 

 

 まず、心理学、とくに発達心理学における用語は大人が命名したものであります。大人の観察に基づいて、それを解釈した大人が名付けているのであります。 

 従って、そういう言葉は本当に子供が体験しているものをそのまま表しているとは限らないのであります。 

 「反抗期」といっても、青年はかならずしも反抗している意識はないかもしれません。大人から見て、それが反抗のように見えるというだけであって、青年はもっと他のこと、反抗とは違った何かをしているのかもしれません。 

 私たちは「反抗期」という言葉から誘発されるイメージに影響されないように注意する必要があると私は考えています。 

 

 二点目は、精神的に健康な青年は反抗期を静かに通過するものである、ということであります。 

 時には親の言いつけに逆らったりするということもあるかもしれませんが、精神的に健康な青年は目立った「反抗」をしないものなのであります。 

 それはなぜかと言いますと、精神的に健康な青年は、心の中で反抗期を通過するからであります。内面に抱えたままその時期を通過するのであります。表立った行動で出す必要がないのであります。 

 従って、やたらと大人に歯向かったり、噛みついたり、攻撃的な言動をしたり、そういう目立った「反抗」をする青年の方が問題があるわけであります。この青年たちはそれを内に抱えることができないことを表しているのであります。 

 

 多分だけれど、大抵の大人は自分の反抗期というものを特定できないのではないかと私は思っています。いつ始まり、いつ終わったかもわからず、反抗期と言われたらあの頃になるかな程度の記憶しかないものではないかと思うのです。反抗期があったとハッキリ確信が持てないという人もけっこうおられるかもしれません。それでいいのかもしれません。 

 自分には反抗期がなかったと嘆く人(この人は親に反抗しなかったという意味でおっしゃっていたようでしたが)は、結局のところ、自分の中に欠損を見てしまう人なのだと私は思うのです。そして、大部分の人は親に目立った反抗などすることなく反抗期を通過していると知ったら、この人は驚くかもしれないな。 

(2022.6.14) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~12通目:「引きこもり者の回り道」> 

 

 子供が引きこもり状態にあるという親御さんがカウンセリングを受けに来る。たいていは母親である。 

 そこには母親がやった方がいいこともあれば、やってはいけないこともある。詳しいことは公式HPで展開したいと思っている。 

 僕は、基本的に、家庭内の雰囲気とか空気が変化して、親子関係、夫婦関係、兄弟関係などが改善していくと、子供は自然に動き始めると信じている。そこに至るまでが長いことは確かであるが。 

 

 さて、そういう母親に知っておいてほしいと願うことがある。 

 引きこもっていたような人が外の世界に出ていくというとき、彼らは真っ直ぐには進まないということである。彼らは回り道のようなことをすることがある。 

 最初からそっちに行っておけば良かったのにと周囲が思うことでも、彼らは2,3か所回り道をしてからそっちに行くということをする場合がある。 

 この時、この回り道をどれだけ容認できるかということが親に問われてしまうのだ。親からすると、子供のやっていることが回りくどいように見えるかもしれないのだけれど、親がどれだけそれに耐えられるかという試練のようなものだと思ってほしいのである。 

 

 また、子供がどこかの職に就いたとする。それでめでたしというわけではなく、その就職がまた回り道の一環である場合もある。親は、適切な関係性でもって、子供と長く付き合っていくことが求められるのである。 

 

 なぜ、引きこもりの子がそういう回り道をするのかということであるが、ここでは詳しく述べるスペースがないのだけれど、彼らなりの通過儀礼のようなものがあるのである。彼らにとっては必要な回り道であったりするのである。 

 

 親にとっては不可解な行動のように見えても、それですぐ何かの問題に結びつけるのではなく、その不可解な行動は彼らなりの意味があることも多いのである。親も落ち着かなければならないのである。 

 僕のカウンセリングを受ける母親たちは、どういうわけか強くなっていく。子供が少々変な行動をしてもびくともしなくなっていく。それでいいのである。母は強しである。 

(2022.6.15) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)  

 

 

(終わりに) 

 便りの10通目から12通目までの三通を掲載しました。 

 10通目は天才と狂人の比喩に基づいて、両者は何が違うのかという点を取り上げました。とはいうものの、分量の関係もあって、最後の方はかなり飛躍しまくっていて、尻すぼみな内容になってしまったように思う。 

 11通目は発達心理学に関係する内容であります。発達心理学、並びに児童心理学とか知青年心理学とか、それらの学問領域で用いられる専門語はすべて大人が命名したものであります。そのため、児童や青年の心理を的確に表しているかどうか疑問でもあるように私は思うのです。反抗期という言葉一つ取っても、児童や青年の心理を的確に表現しているかどうかが疑問に思われてくるのであります。しかし、専門語はまだいいとしても、そういう言葉から一般の人が形成するイメージの方に問題を覚えることが私にはありまして、本項を書いた動機もそれによるものでした。 

 ちなみに、その他の領域では、臨床心理学とか精神医学などにも同じ事情が見られると私は考えています。病名とか臨床像とか、それらはいわば「正常」な人間が作ったものであり、それらを現実体験している人たち(つまり病者)の体験しているものを的確に表しているのかどうかは疑問であります。 

 12通目は「ひきこもり」の子を持つ母親への提言であります。「ひきこもり」の子に変容が見られるようになると、子の方が何かと動き始めるのですが、そこにはさまざまな回り道があると思っておいてほしいと願って書きました。 

 こういうケースでは、母親たちがカウンセリングを受けに来るのですが、子供の言動が分からないとお感じなられるのであります。子供を理解しようとして私のようなカウンセラーを訪れるのでありますが、他のカウンセラーならいざ知らず、私はある程度のところまでしかそのお手伝いをしないのであります。子供の言動の理解できないところは、そのまま「分からない」にしておける母親である方がいいと私は思うのです。つまり、子供のすべてを理解できてしまう母親は、子供にとっては「しんどい」母親であるかもしれないのです。どうしても分からないところは、分からないまま流せるくらいの方がいいと私は思うのですが、そうして母親が強くなるわけであります。我が子のことで分からないところがあってもビクともしない母親がこうして生まれるのであります。 

(2023年7月) 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

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