<T024-3>高槻カウンセリングセンター便り集(3)
(本ページの内容)
・高槻カウンセリングセンター便り~7通目:「正しく比較すること」
・高槻カウンセリングセンター便り~8通目:「比較したがる人たち」
・高槻カウンセリングセンター便り~9通目:「不愉快なパートナー」
・終わりに
<高槻カウンセリングセンター便り~7通目:「正しく比較すること」>
「人と比較してはいけない」と言うカウンセラーもいるけれど、私は反対であります。人は、時には、自分と他人とを比較しなくてはならないのです。
でも、私たちは物事を比較するということをきちんと理解しているのでしょうか。比較するとは一般の人が思っている以上に難しい作業なのです。
なぜ比較をするのか。それは自分の現状を知るためであります。自分が今どれくらいできているのか、どれくらいの順位に、どれくらいのレベルにあるのか、自分以外の人と比較することによってそういうことを知ろうとするわけです。
もう一度繰り返すのですが、比較をするのは現在の自分のポジションを知るためであります。優劣を競うためではないのであります。
次に、自分の何についての現状を知りたいのか、それを知るために何を比較すればよいのか、つまり比較目的と比較内容との適合性が問題になるのです。
そして、比較内容が決定されると、それを比較する対象との適合性が問題になるのです。これはその比較をするのに適した対象と比較するかどうかという意味であります。
例えば、自分の英語力がどれくらいかを知りたいと思う人がいるとしましょう。現在において自分の英語がどれくらい通用するのか知りたい、それが比較の目的となるわけです。
それを知るためには何でもって比較すればよいでしょうか。仮にその人が英検2級取得者であるとすれば、英検1級者やTOEIC点数取得者と比較することは比較適合性が低いということになります。
その人の目的のためには、同じように英検2級取得者と比較するのがよく、その中で自分がどれくらいできるかを比較しなければならないということになると私は思うのです。
では、同じ英検2級取得者が複数人いるとして、どういう場面での比較をするか、そこで、さらに細分化していかなければならなくなるのです。
例えば、自分の英語の語彙力で英語力を測ることにして、3分間の会話の中でどれだけの単語が発せられたかを基準にして比較しようと決めたとしましょう。
この人は自分と他の英検2級取得者の英会話場面を録音して、3分間にどれだけの単語が発話されたかを数えていきます。Aさんは300、Bさんは250、Cさんは180。自分は200だったとしましょう。これが示しているのは、3分間の会話での発声単語数がBさんとCさんの間にあるというだけのことであります。これで比較が成功したと言えるでしょうか。
まだ比較は完成していません。会話の相手の違いによる影響があるかもしれないからです。従って、相手が同一人物の場合で比較しなおさなければならなくなります。Xさんとの会話において、発話される単語数を数えなければならないということになるわけです。
Xさんとの3分間の会話における発話単語数は、Aさんで280,Bさんで250,Cさんで230,自分は270ということであれば、この4人の中ではほぼ優である。ただし、最高280から最低230までの差なので、全体としては4人の発話単語数に大きな違いは見られないということになります。従って、この人の語彙力は、ほぼ人並みであるけれど、4人の中ではまだ良い方と言えることになります。
上記が本当に正しい比較になっているのか自分でもわからないのですが、比較というのは正しい手続きを取らなければならないことをご理解していただければと思います。
こういう比較は感情抜きでなされるものであり、劣等感や嫉妬感情などに襲われるはずがないのであります。
(2022.6.10)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
高槻カウンセリングセンター便り~8通目:「比較したがる人たち」
いちいち自分と他人を比較したがる人たちがいます。この人たちのことを書こうと思っていたのでした。
前回の便りはこの前置きのようなものでして、比較ということがどれだけ煩雑な作業であるかを示したかったのでした。比較するには、条件を統制し、手段も厳密に選択しなければならないのであります。できるだけ正しい比較をすることによって、現在の自分の状況を知るのであります。
比較したがる人たちは、一見すると比較しているように見えるかもしれません。彼ら自身がそのように言うこともあります。でも、それは比較と呼べるような代物ではないのであります。彼らは「比較」とは全く異なった活動をしているのであります。
彼らは、他人と「比較」することによって劣等感なり嫉妬感情に囚われるのであります。そこで「自分と人と比較することを止めましょう」などと助言しても無意味なのであります。彼らがしているのは比較ではないからであります。彼ら自身もまた自分が比較とは別種の活動に耽っているということを知らなかったりします。
彼らの「比較」は極めて恣意的であります。それは比較とは言えない活動であり、後から比較という体裁を整えるだけのものであるとも言えそうであります。
つまり、最初に自分自身の不全感を体験し、その不全の正当性を見つけ出すようであります。その不全感に意味づけをしているに過ぎないように私には見えるのであります。その意味づけによって、最初に体験された不全感は覆いをかけられ、曖昧になってしまうようであります。
もちろん、個々人によって違いはあるでしょう。一部の人は自己の違和感をそこで覚えるようにも私には思われるのです。自分が何かおかしいといった感覚であるかもしれません。その感覚に意味づけできなければ、その違和感や異常感が心を独占してしまうので、それに対する防衛として、「比較」に似た行為をするのでしょう。
つまり、自分の中に生まれるこの異常な感覚は、自分が劣っているからだということにできれば、一応は安心できるだろうということです。従って、その比較が正しいかどうかということは関係なく、類比較行為が行われるのであります。それも自動的になされるようであります。
人と比較することは良くないからといって、あらゆる比較を排斥する態度も正しくないでしょう。必要な比較、正しい比較を時にはしなければならないこともあるのです。
比較ではない行為を比較と称し、そこから比較全体を弊害視することは控えなければならないように思います。
比較が問題なのではなく、彼らが体験している自己に問題が生まれているのであります。そこを混同すると間違った方向に進んでしまうように私は思うのであります。
(2022.6.11)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
高槻カウンセリングセンター便り~9通目:「不愉快なパートナー」
いくら愛し合って一緒になった夫婦と言えども、ずっと一緒に暮らしていると相手の不愉快な部分が見えてくるというものです。パートナーの嫌いなところ、受け入れがたいところ、許せないところなどが見えてくるものであります。
そうなると、その人はパートナーに対しての不愉快な感情を頻繁に経験してしまうことでしょう。それを目にしてしまうたびに不愉快な感情を覚えてしまうことでしょう。
この不快感情はその人の中で処理できるに越したことはないのであります。パートナーにぶつけても、それで変わることはほとんどないと私は思うのです。というのは、そのパートナーも意図的にそれをしているとは限らず、長年身に染みているものなのですぐには変わらないということもあるわけであります。
子供がいる場合、もしくはこれから子供を持とうと思う人にとっては、上述のことは特に大切であります。
というのは、そのとばっちりを子供がくってしまうからであります。
例えば、母親がいるとしよう。子供が父親に似てくるのであります。それだけで母親には子供が受け入れがたい存在になってしまうこともあるのです。夫の受け入れることのできない不愉快な部分を子供に見てしまうわけであります。
子供にとってはいい迷惑であるかもしれません。好きで父親に似るわけではないからであります。
不愉快な感情は、その人の中で拡大していき、その人と一体化することもあります。つまり不快感情で心が占められてしまうのであります。不快感情がその人を圧倒して、その感情に自己を明け渡すようなことになるわけであります。
こういう親が、やがて成長した子供から、「毒親」などと評されてしまうのでしょう。
毒親もまた不幸を背負った一人の人間であります。どこかでこの不幸の連鎖を断ち切りたいとも私は願うのでありますが、そこには当人の決断が欠かせないのであります。
(2022.6.12)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<終わりに>
本ページは7通目から9通目の三通を掲載しました。
7通目と8通目は「比較」ということを取り上げました。劣等意識に苛まれる人はとかく「自分と他人を比較してしまう」のでありますが、そもそもそれは比較と言える代物ではないということを示したかったのでした。比較は正しくされなければならないものであり、一般の人が考えている以上に難しいことなのであると私は考えています。
8通目は、他人と比較して劣等意識に襲われるのではなく、先に劣等意識に襲われるのであり、後付けで比較のようなことがなされるのであるということを述べたかったのでした。こういうのはもはや「比較」などとは言えない行為である、ということであります。
9通目は夫婦に関する内容です。夫婦に限らず、不愉快な感情を抱えることができず、その不愉快な感情に自己が占領されてしまうような人とお会いすることも少なくありません。感情と自己との同一化が生じるのであり、それは感情を抱える自己が成立していないことを思わせるのであります。
(2023年7月)
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)