<T024-2>高槻カウンセリングセンター便り集(2) 

 

 

(本ページのコンテンツ 

・高槻カウンセリングセンター便り~4通目:「欠損を見る人」 

・高槻カウンセリングセンター便り~5通目:「チャンスを逃す人」 

・高槻カウンセリングセンター便り~6通目:「運と自己との関係」 

・終わりに 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~4通目:「欠損を見る人」> 

 

 自分の中に「欠損」ばかり見てしまう人がいます。 

 その人は何かにつけて、自分にはこれこれの能力が欠けている、技術が欠けている、経験が欠けている等々、常に自分の中に欠損を見てしまうのでした。過去の経験であれ、現在の経験であれ、さらには未来の予測にまで、自分の欠損を見てしまう人でした。 

 この人は、その欠損と向き合い続け、それを補うために人一倍努力してきたようでした。自分を律し、ひたすら技能向上に務めてきたと言います。 

 

 よくよく話を伺うと、この人は欠損を見ているのではないようでした。見たくなくても見えてしまうという感じでした。つまり、この人の方から欠損を見るのではなくて、欠損の方から意識に入り込んでくるようでありました。 

 従って、この人が欠損を見てしまうというのは、そのような強迫観念に襲われているということであるようです。そうなると、欠損の有無などということよりも、この人の「強迫性」が問題になるのでした。 

 

 もし、強迫的な傾向がこの人の問題であるとすれば、欠損は現実ではなく幻想のようなものになります。というのは、欠損ではなく、欠損の観念が強く迫ってくるということになるからであります。観念としての欠損が意識されるのであって、それは現実の欠損を表していないと思われるわけであります。 

 従って、この人がいくら欠損に向き合っても、そこには何もないかもしれません。いくら欠損を補う努力をしたとしても、その努力は無駄であるかもしれません。幻想を相手に努力しているようなものであるからです。 

 そもそも、その問題に取り組んでいるこの人の姿勢そのものが「強迫的」であるとも言えそうです。つまり、問題解決の試みがそのまま問題そのものであったとも言えそうであります。極端に言えば、この人のしていることはすべて「強迫」の傘下にあるのであります。 

 

 心の問題は正しく評価することが難しいものです。専門家でさえ苦労するところであります。 

 その克服や改善のためには、正しい軌道に乗ることが不可欠であります。そのために、自分自身の見つめなおし、語り直しというところから始める方がいいのであります。 

 

 解決・改善の一歩をカウンセリングでお手伝いできることを願っております。 

(2022.6.6) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~5通目:「チャンスを逃す人」> 

 

 世の中にはチャンスをつかむ人もあれば、チャンスを逃す人もあります。 

 また、一人の人が、チャンスを上手くつかむこともあれば、逃してしまうこともあります。 

 チャンスや運というものが、どういうものであるかが明確にできないので、こういうテーマは本当なら回避したいところであります。 

 私の個人的な見解では、チャンスをつかむ人はチャンスが到来した時には準備ができており、すぐに動き出せる状態になっているのであります。チャンスを逃す人は、チャンスが到来して、そこから準備を始める人なのであります。 

 両者の違いは心の在りようの違いである、もしくはパーソナリティ傾向の違いである、と私は考えています。運やチャンスの違いではないと思うのです。 

 

 サラリーマン小説で有名な源氏鶏太氏は、どんなサラリーマンでもそのキャリアにおいて、3回くらいは出世のチャンスがあると言っているそうであります。私も同感であります。 

 このことは、サラリーマンだけでなく、クライアントに対しても当てはまる場合があります。しばしば、私もそのような感慨を抱いてしまう、そういうクライアントがおられるのであります。 

 つまり、これまでの人生において、その人は自分の問題や症状を処理できるチャンスが3回くらいあったと思われる人たちであります。その時に取り組んでおいたら良かったのにと、聴いている私がそう思ってしまうのであります。 

 どの人にも「治る」チャンスが与えられているのであります。「治らない人」はそのチャンスを見過ごすのであります。絶好の機会でさえ、彼らはそれを素通りしてしまうのであります。 

 

 そして、こういう人たちもいる。チャンスを逃したことを決して後悔しない人たちであります。 

 つまり、「あの時、思い切って臨床家の門を叩いておけばよかった」とか「あの時、中断せずに最後までやっておいたらよかった」などといった後悔が生まれない人たちであります。後悔できるほど成熟していないのか、退行しているのか、ともかく、そういう人は自分の人生に後悔するということが生まれないのであります。 

 それならそれでいいのかもしれません。チャンスを逃したのに、チャンスを逃したということに一生気づかない方が、その人にとっては幸せなのかもしれません。それに気づいてしまう方が苦しいでしょう。 

 

 チャンスをつかむも逃すも、それに気づくも気づかないのも、その人次第であります。 

(2022,6,8) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~6通目:「運と自己との関係」> 

 

 運とかチャンスとかいったものと自己とはどのような関係を築くとよいのでしょうか。今日はそれを考えてみましょう。 

 

 前回の便りの続きなのですが、運とかチャンスというものは実態がよく分からないと私は考えていますので、細かな定義を省いておくことにします。そこに入り込むと煩雑な記述を積み重ねていかなければならなくなりそうであります。 

 

 例えば、今朝の仕事がとても上手くいったとしましょう。ラッキーだと思うかもしれないし、自分の実力であると評価するかもしれません。おそらくどちらも正しいのでしょう。 

 今朝の仕事が上手くいったのは、私の実力もあるけれど、その他もろもろの要素も絡んでくると思います。 

 まず、交通機関が支障なかったこと、事故とか事件に遭遇しなかったこと、体調が良かったこと、事務的な雑務がスムーズに運んだことなど、仕事に直接的にかかわりのない事柄すべてが関係してくるかと思います。 

 今朝の仕事が上手くいったのであれば、それは全体が上手くいったということを示していると私は考えています。そのためには、自分だけではなく、自分を超えたところのものも上手くいかなければならないということになります。この、自分を超えたところのものにあるのが運とかチャンスといったものであると私は考えています。 

 

 J・メールという人が面白いことを言っています。 

 就学前後の児童は、ほとんど偶然の産物としか言いようのないものでも自分の技能として評価すると言うのです。もう少し年長になると、自分の技能と偶然とが分化していくのですが、それぞれをかなり恣意的に評価するというのであります。(『不安と行動』 J・コーエン著 誠信書房より) 

 余談だけれど、僕にも覚えがある。小学校低学年ころのことだ。通学路の途中に交差点があって、信号があった。そこにたどり着くと同時に信号が青に変わる歩き方を発見したと僕は信じていた。滑稽な話だね。交差点に着いたときに信号が変わるのは偶然だったのだけれど、僕は自分の歩き方でそうなったと信じていたんだね。子供時代を振り返るとバカなことをいっぱいやっていたと思うよ。 

 偶然のような出来事まですべて自分の実力だと信じ込んでいる人は、どこか子供っぽいという印象を私は受けるのですが、それも私のそうした経験に基づいているのかもしれません。 

 評価が恣意的になるというのは、例えばギャンブル依存の人なんかに見る思いがします。負けた時は運が悪く、勝った時は自分の技能だと評価しているのであります。本当はどちらも偶然かもしれないのですが。 

 

 すべてが自分の技能であるなどと独りよがりに陥るのも正しくないでしょうし、恣意的に評価することも正しくないのでしょう。そこには、自分の技能と外的な偶然との関係が正しく把握できていないという気がしてきます。 

 そのように考えると、自分自身との関わり、他者とか世界とかの外的なものとの関わり、そのどちらもが成熟していく必要がありそうです。そうでないと、何が運とかチャンスに属するもので、何が自分の技能とか実力に属するものであるが、区別できないように思います。区別できないと自己評価も歪んだものになるかもしれません。 

 「運も実力のうち」と言いますが、それが成立するためには運と実力とが明確に区別されていなければならないのでしょう。 

(2022.6.9) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

(終わりに) 

 今回は4通目から6通目の三通を掲載しました。我ながらどうでもいいような、くだらないことを綴っている気がして、自分に嫌気がさしてくるのですが、当時は今日は何を書こうかなどと、楽しみながら書いていたのを思い出します。 

 4通目の「欠損」という概念について、こうして読み返すと言葉足らずだったことに気づきます。これは「不足」概念とは決定的に異なるものであります。自分にそれが足りないという感覚ではなく、それが欠落しているという感覚であります。従って、この人(あるクライアントを思い浮かべて書いたものなのですが)は自分自身を「欠陥」のある存在として体験されていたわけであります。その辺りのことから述べないと、どうしてこれが「強迫」に結びつくのかが不明瞭であるように思い、反省する次第であります。 

 5通目と6通目は運とかチャンスとかいう観念に関わる内容です。私は個人的には運とかチャンスとかいうものがよくわかっておりません。いつか研究してみたいとも思っていましたが、今ではさほど興味も湧かないテーマとなっております。その人の運とかチャンスというものは、その人の無意識の領域にあるものであると当時は(今でもそうなのだけれど)考えていたものでした。 

(2023年7月) 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

  

 

 

 

 

 

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