<T024-19>高槻カウンセリングセンター便り集(19) 

 

(本ページの内容) 

・高槻カウンセリングセンター便り~55通目:「治る人・治らない人」(11)(治癒の発見~続き) 

・高槻カウンセリングセンター便り~56通目:「治る人・治らない人」(12)(仮定法) 

・高槻カウンセリングセンター便り~57通目:「治る人・治らない人」(13)(スタートとゴール) 

・終わりに 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~55通目:「治る人・治らない人」(11) 

 

(治癒の発見~続き) 

 

 治癒はその人の中から創造され、それは「発見」されていくものでありますが、自分自身で発見するのではなく、周囲の人が発見し、その人に何らかの形で伝えてくれるものであります。周囲のフィードバックを通して、人は自分の変化や治癒に気づいていくものなのであります。 

 

 以上の観点に立つと、孤立している人は不利であります。そうしたフィードバックをしてくれる他者が周囲にいないのであります。治癒や変化を発見する機会が限りなく制限されてしまうわけであります。 

 「治らない人」の困難がここにあるのです。しばしば彼らは孤立しているのであります。家族からも社会からも隔絶してしまっているのであります。その人の変化を伝えてくれる人がいないのであります。 

 この人たちが自分は「治った」とか「良くなった」と言っても、主観的な感情体験でそう判断していることが多いと私は思うのです。もう少しその言葉を支持するエピソードが得られるといいのでありますが、なかなかそういうことは語られないのであります。 

 

 カウンセラーの仕事の一つは、クライアントの変化を積極的に見出し、且つそれをクライアントに伝えていくことであると、私は考えています。 

 以前、あなたはだいぶん良くなったよと医師から言われて、その医師への不信感を高めたという人のことも書きましたが、クライアントがどう受け止めるとしても、その医師は変化や治癒をその人にフィードバックしているのです。 

 こうしたフィードバックは、例えばアドバイスや傾聴なんかよりも、はるかに有効であると私は考えています。 

 ただし、ウソは言ってはいけない。本当にそのクライアントの変化が感じられた場合にのみ、それをフィードバックするのです。従って、カウンセラーは少しの差異でも変化として感じとれるようにならなければならないと私は考えています。 

 例えば、毎回15分遅刻してくるという人がいるとしましょう。その人が、今日は12分の遅刻だったとしましょう。これは変化なのです。そこでこのことをフィードバックするかどうかですが、私はそれがもう少し定着してから伝えてみようと思います。12分の遅刻が続いた頃に、最近は以前よりも3分早く到着するようになったね、などと伝えることと思います。 

 そう伝えても、その人は自分の変化としてそれを受け止めないでしょう。バスのダイヤが変わったからだとか、家事で手間が省けたものがあるからだとか、なんとかかんとか答えることでしょう。それならそれでいいのです。そこでクライアントと言い合いしても不毛なだけでしょう。 

 しかしながら、15分遅刻してくる人が12分の遅刻になったということは、ここへ来ることの抵抗感が薄れてきている可能性があるわけであり、もしそうであるなら、その他の場面でもそれを窺わせるエピソードに遭遇するはずであります。そこで再度それを取り上げて、フィードバックすればいいのであります。 

 

 「治らない人」は、しばしば孤立しており、周囲からフィードバックされることがない状況に置かれていたりします。だから臨床家はそういうフィードバックをしていかなければならないと私は考えているわけであります。 

 しかし、「治らない人」にはまた別の難点があるのです。そういうフィードバックを拒絶するか、自我化していかないのであります。これについてはまた今後取り上げる予定をしています。 

(2022.9.20) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~56通目:「治る人・治らない人」(12) 

 

(仮定法) 

 人の変化とか治癒といったものは緩やかに達成されるものであります。そして、そういうものでなければならないのであります。一回の何かで劇的に治る人は、一回の何かで劇的に悪くなることのできる人であり、それはやはり良くないのであります。 

 治癒(「治る」)は、まず当人に自覚されることなく達成されるものであり、その瞬間が自覚されるということはないのであります。人は知らない間に良くなっていくのです。また、そういうものである方が望ましいのです。 

 当人が自分の変化に気づくということは難しいものであります。多くは他者からのフィードバックや関係性の変化を通じて気づかれていくものであります。 

 しかしながら、自分の変化を自分で気づく手段も無いわけではありません。私はその際には仮定法の形でしか言えないと考えています。 

 つまり、「あの時、治療を受けていなかったら、今頃こうなっていただろう」という形でしか人は自分の治癒を自覚できないと私は思うのであります。 

  

 仮定法でもってしか自分の変化とか治癒とかが把握できないというのはなんとも覚束ない感じがするかもしれません。 

 私が思うに、こういう仮定法がきちんとできるということはその人の心がかなり健康である証拠なのです。というのは、これができるためには自己の連続性が保たれていること、現実吟味ができること、時間的展望が持てていることなど、いくつかの条件が必要になるからであります。 

 

 何気ない場面で気づくということもあるでしょう。例えば、ふと気が付くと以前とは違うことをしているとか、以前ならこういう場面でこういう反応をしていたのに今はそうしていない、などといったことに気づく場合もあります。 

 ここでも仮定法が登場することが多いように私は思います。つまり、「以前ならこうしていたのに今はしなくなった。あの時改善していなかったら今でも以前のような反応をしていただろうな、そして今の自分はいなかっただろうな」などといった仮定法で思考するわけであります。 

 

 以上を少し時間軸でまとめると次のようになると思います。 

 まず、心が先に変化するのであります。 

 次に、その変化が表面化するようになります。これは心の変化よりも後に生じるものであります。このことはいつか取り上げることになると思います。 

 それから遅れて、周囲の人が気づいたり、周囲の人の反応に変化が見られたりします。 

 それからさらに遅れて自分で気づくことになると私は考えています。自分で気づくのは変化や治癒よりもかなり後であることが多いように思うのです。それだけ時間的な隔たりもあるので、仮定法の形を取らざるを得なくなるのではないかとも私は考えています。 

(2022.11.10) 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~57通目:「治る人・治らない人」(13) 

 

(スタートとゴール) 

 「治る人」は自分の治癒を時間的にかなり後になってから気づくということを前回は取り上げましたが、このことは読む人にとっては奇異に聞こえるかもしれません。どうしてもっと早い段階で気づかないのか不思議に思うかもしれません。それに関して今回は述べておこうと思います。 

 これは単純な話でありまして、「治る人」はすでに次の段階のところに進んでいるためであります。もはや「治る-治らない」という次元に立っていないからであります。 

 

 ところがこれは非常に大切な話でもあります。というのは、治癒がゴールになっている人と、治癒がスタートになっている人との間には決定的な違いがあると私は思うからであります。 

 端的に言うと、「治らない人」は治ることが到達地点であり、目標であり、ゴールとなっているのであります。そういう思考をされていることが多いように思うのであります。治りさえすれば後は何にも要らないといった感じを受けることも私はあるのですが、これに関してはいずれ述べる機会があるでしょう。 

 「治る人」は、最初は治癒がゴールであったとしても、新しい何かがスタートしていくのであります。治った後に新しい人生を踏み出したりすることもあるわけであります。治癒はゴールではなく、新しいスタートになっていくのであります。 

 そうして新しいスタートを切っていくので、自分が治ったかどうかということは過去の次元になっていくのであります。それで自分の治癒に気づくことも遅くなるのであります。私の経験した範囲では、本当に「治る」人はそういう「治り方」をしていくように私は思うのであります。 

 

 以上を図式化して言えば、「治らない人」はゴールを求めるが、「治る人」はスタートを求めるわけであります。個人的には実際にそうであると思っています。 

 今後の話を先取りすると、「治らない人」は「治った」後の人生を持たないのであります。その人は親とか過去経験とか、さらには「病気」とか、それらの被造物として自己を生きているに等しいと私は考えています。それらが解消されるともはや自己がなくなるわけであります。 

 「治る人」は「治った」後の人生を形成していくのであります。自分自身や人生の創造主として生きていくのであります。彼らはそこから新しいスタートを踏み出していくのであります。誰かからゴールに導いてもらえるといった受動的な生き方を彼らは放棄していくのであります。 

(2022.11.10) 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

<終わりに> 

 本ページは高槻カウンセリングセンター便りの55通目から57通目までを掲載しました。内容的にはまとまりがなく、言葉足らずのところが散見され、もう少し丁寧に書くことができればよかったと思います。 

 55通目は治癒の発見の続きであります。自己の治癒は他者の鏡を通して発見されることが多いので、孤立している人はなかなかその機会が得られない傾向が強まるのです。そこでカウンセラーは積極的に変化を認め、フィードバックしていくことが求められると私は考えています。カウンセラーの仕事は、傾聴とか共感ではなく、こうしたフィードバックにあるとも思います。 

 56通目は上述のテーマの流れで、自分で自分の変化とか治癒を発見しよう欲すれば、それは仮定法の形を取らざるを得ないという内容でありました。そういう形でしか自分の変化が見えないということであります。また、特に述べなかったのですが、寝ている間に見ている夢の内容とか性質を通して変化を知ることもできると私は思うのです。ただ、あまり丹念に夢を記録をつけているという人はあまり多くないかもしれません。 

 57通目はスタートとゴールという内容でした。「治らない人」はゴールに導いてもらうことを望むという感じがあるのですが、「治る人」はスタートを求めるようになるという主旨でありました。 

(2023年7月) 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

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