<T024-14>高槻カウンセリングセンター便り集(14)
(本ページの内容)
・高槻カウンセリングセンター便り~40通目:方法だけを求める人
・高槻カウンセリングセンター便り~41通目:私の唯一性
・高槻カウンセリングセンター便り42通目:寡症状性の人たち
・終わりに
<高槻カウンセリングセンター便り~40通目:方法だけを求める人>
方法だけを求める人がいるのだけれど、そういう人はまず上手くいかないだろうと僕は思う。というのは、どのような技法も知識も、その人の人格水準、自我成熟度を超えることはないと思うからである。
従って、技法も知識も、その人の人格水準や自我成熟度に応じた程度にしか身につかないし、活用できないということである。端的に言うとそういうことである。
彼らが間違っているのは、自分が上手くいかないのは方法を知らないからだと信じているところにあると思う。そしてどこかに優れた方法があり、いつかそれに出会えると信じているのである。これもまた青い鳥のようなものだと僕は思っている。
このことは、つまり、自分はそのままで、自分に都合のいい方法だけを取り入れようとする態度であり、その人の自己とのかかわり方を端的に示すものだと僕は考えている。彼らは自分を放棄しているに等しいのである。自分を捨て、そこに方法を埋め合わせようとしているようなものだからである。
一部のクライアントたちはそうなのである。
彼らはカウンセリングでもなんらかの「方法」を求めてくる。そういうものが得られると期待している。僕がそういう方法を知らないと伝えると、途端に興味をなくすような人もある。
仮に何らかの方法を教えられても、それが十分に自分のものになっていく以前に、これは自分に合っていないとか、この方法では上手くいかないとか理屈をつけ、もっと他の方法へ目移りすることもある。
だから、方法を探す人は永遠に方法を探し続けるだろうと僕は思っている。方法以前のところのもの、方法よりも前段階にあるものに、彼らは目を向けようとしないのである。
カウンセリングに限らず、それは他のどんなことにも該当すると僕は思っている。
例えば、「色々試して上手くいかなかったあなた、ぜひこれをお試しください」といった宣伝文句を見聞することがある。色々試して上手くいかなかった人は、それを試しても上手くいかない可能性が高いと僕は思っているわけだ。
それでも、もしそれを試して上手くいったとしたなら、それが特別優れているというのではなくて、ユーザーの自我状態が以前とは変わったからである。方法の優劣は、僕の個人的な見解では、それほど大きな要因とはならないのである。
方法以前にその人の在り方とか姿勢などが問われているのである。スキルやメソッドということも心に深く関係するものなのである。
(2022.8.13)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<高槻カウンセリングセンター便り~41通目:私の唯一性>
例えば、僕が百貨店に買い物に行ったとしよう。一人の店員さんに僕は用を頼んだとしよう。そして、その店員さんは僕のために商品を探し、取りに行ってくれている。僕はその店員さんが戻ってくるのを待っている。
この時、僕の中でこの店員さんは特別な存在になっている。周囲には他に店員さんがたくさんいるけれど、僕にとってこの店員さんが唯一の店員さんになっていることに気づく。
どの人にも誰かにとって唯一の存在となっている場面があるものである。上の例は些細な場面であるかもしれないし、その唯一性も一時的なものであるかもしれない。それでもその店員さんが僕にとっては唯一の存在となっていることに変わりはない。
僕が一人のクライアントと会う。これまでに何人ものクライアントとお会いしていようと、今お会いしているこの人が僕にとっては唯一のクライアントとなる。
クライアントの方でも同じである。他にカウンセラーはゴマンといるけれど、この人にとって、少なくとも今は、僕が唯一のカウンセラーになっているのである。
家族を持つということは、こうした唯一性を獲得する手段となる。
他に異性は数多く存在しているけれど、私にとってその人が唯一の異性となる。私にとって妻(夫)と呼べる人はその人だけである。相手にとっても同じである。
子供を持つこともそうである。この子が唯一父親(母親)と呼べるのは私だけとなる。自分の子供と呼べるのはこの子だけとなる。
家族はお互いの唯一性を創造し、確認し合う経験の場である。
ある人が僕にとって唯一の存在になる時、その人は僕の中で特別な存在になる。かけがえのなさという様相を僕の中では帯びてくる。相手のかけがえのなさを僕が知っていくと、相手に対して感謝の気持ちも生まれてくる。ただ、僕の中でそういう体験をしていることも、そういう感情が芽生えていることも、相手は知らない。
同じことが相手の方でも起きると思う。僕も誰かにとって唯一の存在になっているかもしれないけれど、僕はそのことを知らないのである。
こういうのは若干不幸なことのようにも思えてくる。お互いの唯一性、かけがえなさという体験をお互いに知ることがないのである。人間の世界とはそういうものかもしれず、それを受け入れていくことも必要なのかもしれない。
いささか「神経症」的な人は、自分の唯一性とか、重要性というものを、自分で認識できないといけないと考えてしまう。でも、それは自分で認識できなくても構わないのである。それは他者が認識することであって、他者が体験していることであって、僕自身にそれがフィードバックされなくても構わないことであると僕は考えている。
ただ、自分の唯一性、他者の唯一性に思い至らない人は不幸であると僕は思う。外面的には幸福そうに生きていたとしても、不幸である。というのは、その人にはかけがえなさということが本当には理解できないからである。
そして、話が飛躍してしまうのだけれど、個人の唯一性が無視ないしは軽視される世界では、容易に戦争が起きると僕は考えている。
(2022.8.15)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<高槻カウンセリングセンター便り42通目:寡症状性の人たち>
いやはや、前回の41通目は削除されたらしい。41通目は今回の前置きみたいな位置づけにしようと思っていたが、計画が狂った。
僕にとってとても重要な内容であっただけに削除は残念だけれど、仕方がない。掲載も削除もグーグルさんが決めることである。僕にその決定権はない。
前回は、人はどのようにして自分自身のかけがえなさを体験するかという内容であった。それは常に他の誰かによって体験されるものであって、悲しいことに、それを自分自身で直接的に体験することはないのである。一方で、私は他の人のかけがえなさを認め、体験するのである。こうした体験をお互いにフィードバックしあえるとどれだけいいだろうかとも思う。
どの人にもその人が唯一の存在となる場面がある。そういう場面がより多い人と少ない人との違いはあるかもしれないけれど、どの人にもそういう場面があるのである。この唯一性という概念が、その人のかけがえなさにつながるわけである。
お互いがお互いのかけがえなさを認識し、体験できるようになれば(もっと理想を言えばそれをお互いに伝えあうことができれば)、戦争なんて起きないと僕は考えている次第である。
さて、なぜ僕がこういう内容のものを書いたのかというと、寡症状性の人に訴えたいからである。こんなふうに僕の手の内を開示した時点で僕の目論見はご破算になっているのだけれど、グーグルさんに誤解されるのもいやなので仕方がない。
寡症状性の人というのは、明確な症状なり問題行動なりを見せない人たちのことである。漠然とした問題を抱えているという人たちである。自己の不確実さ、自分自身の存在の不明瞭さに悩む人たちである。こういう人たちにも何か届けたいと僕は願うわけである。
グーグルさんをはじめ、IT屋さんなんかも広告の提案をしてくるのだけれど、彼らの提案するものはすべて症状を発している人に対しての働きかけなのである。それでは明確な症状に至らない人に対しては届かないのである。
寡症状性の人というのは、表面的には何も問題を抱えていないように見えるものである。他者からは見えないのである。それでもその人の内面に何か自分自身に対する不確実感などが経験されているのである。
僕が思うに、こういう人たちの方がなかなかカウンセラーや治療者とつながらないものである。症状を出している人の方がよりつながるのではないかと思う。彼らが体験している不明瞭な何かを、一体どうやって検索できるだろうか。
確かに、僕も上手にはできないけれど、そういう人たちが取り残されないように、何か彼らにアピールできるものを届けたいという気持ちだけはある。
実際、おそらくだけれど、数の上では寡症状性の人の方が多いはずである。症状形成にまで至らないという人の方が多いと僕は思っている。そういう人にも援助の機会が与えられなければならないと僕は思う次第である。
(2022.8.17)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<終わりに>
今回は高槻カウンセリングセンター便りの40通目から42通目までを再録しました。
このうち41通目が削除されてしまったのだけれど、逆に言えば、40通目が削除されなかったことの方が不思議である。40通目では、どんな方法を求めても人格水準が低いと無駄であると言っているわけなので、削除されるとしたらこちらの方だろうと思うのである。案外、グーグルさんのシステムも大雑把なのだなと思った。
それはさておき、40通目の内容は今でも私の本音であります。いくら方法を身に着けようとしても、その人の人格水準を超えることはないと考えています。言い換えれば、より多くの方法を身に着けようとするならば、先に器の方を大きくしなければならないということであります。
41通目は私が日ごろから思うところのものであります。個人が誰かにとって唯一の存在になっているという瞬間があるものであります。そこはたやすく見過ごされてしまうことが多いのでありまして、残念に思うこともあります。
自己の唯一性を感じられないこと、それを体験できないことの悩みを寡症状性の人は抱えているのではないかと思うのだけれど、42通目は言葉足らずで終わってしまったようです。削除のことで分量を割き過ぎたのが拙かったようであります。
(2023年7月)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)