<T024-10>高槻カウンセリングセンター便り集(10) 

 

(本ページの内容) 

・高槻カウンセリングセンター便り~28通目:AC(アダルトチルドレン)信者 

・高槻カウンセリングセンター便り~29通目:ACについて 

・高槻カウンセリングセンター便り~30通目:ACについて(続) 

・終わりに 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~28通目:AC(アダルトチルドレン)信者> 

 

 ACというのは宗教のようなもので、一度これに入信してしまうと廃人の道まっしぐらとなる。僕の中では覚せい剤よりも恐ろしいものである。 

 

 ところで、人の不幸や不運、災難を一手に引き受けてくれる存在がある。我々はそれは神とか仏と呼ぶ。人間の場合であれば、神格化された救世主といったところか。いずれも信仰の対象となる。 

 私たちが神仏に祈願する。家内安全などを祈願する。この時、家族の病気や災難を引き受けてくれて、それを自分たちから遠ざけてくれることを神仏に願っているわけである。そして、健康や平和だけが自分たちにもたらされることを祈っているわけである。 

 

 AC信者も同じ構図である。自分たちの不幸を一手に引き受けてくれる存在を彼らは持っているのである。それはつまり「毒親」である。 

 自分が不幸なのは毒親のせいだ、と彼らは言うのであるが、同時にそれは毒親を信仰しているということにもなるのだ。自分の悪を毒親が引き受けてくれるから、毒親が信仰の対象となるわけだ。 

 従って、彼らは毒親を崇拝し、信仰しているのである。いくら親をけなそうと、暴力をふるおうと、そうすればするほどその信仰が強められていくわけである。 

 AC信者は「毒親教」と言ってもいいかもしれない。彼らは毒親を神のように崇めているだけなのである。 

 しかも愚かなことに、彼らは毒親信仰に気づいていないうえに、自分が毒親に縋り付いていることにすら気づいていないのである。 

 

 さて、AC信者なぞに僕のカウンセリングは受けてほしくないのである。一人のAC信者ほど周囲にとってはた迷惑な存在はいないだろうと僕は思っている。 

 いや、自分の実体験からもそう言えるのだ。僕も20代のころはACのような理論を信仰していた。30歳を契機にしてそれが間違っていることに気づいたのである。相当恥ずかしい思いをして、ようやくそれに気づいたのであるが、気づくことのできただけ僕は幸運だったと思っている。 

 

 僕がこんなふうにAC信者を辛辣に言うのは、人はその信仰からなかなか抜け出せないからである。とんでもなく痛い思いや恥ずかしい思いをして、どこかで慧眼しないかぎり改宗は不可能であるとさえ思っている。 

 AC信者は人生のどこかで目覚めなければならない。痛い思いをしてでも目覚めなければならないのだ。ACであることでどれだけ自分の人生を棄損してきたか、激しい後悔の念に襲われる体験をしなければならないのだ。 

 どんな人生を営んでいくつもりなのか、AC信者には常にこれが突きつけられているのである。そこに毒親なんか関係ないのである。 

(2022.7.21) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~29通目:ACについて> 

 

 前回の28通目に削除要請が来ていた。僕は前夜それを知ったのであるが、削除するつもりはない。ただし、運営側から、例えばここの表現を変えてくださいとか、この一文は書き直してくださいとか、具体的な指摘があれば改善するつもりでいる。だから運営側の指摘・指導を請う次第である。 

 

 この「便り」は、ページを開いてくれた閲覧者に何か読み物でも提供しようという思いで始めたものであります。 

 特に意図するところのものはないのだけれど、カウンセリングにはさまざまな問題が寄せられるのだなとか、カウンセラーというものはいろんなことを考えているものだなとか、そういうことが伝われば十分であります。 

 そういうわけなので、いつかAC(アダルトチルドレン)についても書くことになるだろうとは思っていて、それが前回だったというわけであります。 

 

 さて、私がACに関してはこうも辛辣になるのには理由があるのであります。弁明も兼ねてその辺りのことを述べておこうと思います。 

 

 まず、この世の中にはACという人は存在しないのであります。ACであると信じている人がいるだけなのであります。ここにはすでに信仰が認められるのでありますが、私の考えの大前提であります。 

 AC信者(と私は呼ぶのですが)は、決して人間的に劣っているとかダメであるとかいうわけではありません。ACを信奉するようになって、ダメになっていくのであります。私はそれを確信しているのです。 

 

 彼らがAC信仰に陥るきっかけがあります。彼らは人生のどこかでACのような理論に遭遇するのであります。 

 彼らはその時のことをよく覚えているのであります。彼らはその理論に激しい衝撃を受けるのであります。 

 この衝撃は一般の人にはなかなか理解しづらいかもしれません。その理論がその人の心の深い層の部分に影響を及ぼし、無意識のさらに深層の領域にあるものを刺激するのであります。だから自分が根底から揺さぶられるような体験をするのであります。 

 なぜそういうことが言えるのかと言いますと、理論に遭遇した時の彼らの体験、並びにその後に彼らに生じる諸現象から窺われるのであります。 

 

 その後に生じる諸現象の一つで、これは典型的なものでありますが、彼らは無力化し、心的退行をきたしてしまうのであります。一気に無力化してしまう人もおられるのであります。 

 この無力化のために、改善に向けて自ら動くということがなくなってしまうのであります。代わりに彼らは親を変えようという試みをするのですが、これは無力化の補償であると私は考えています。 

 

 さて、分量が長くなりそうなので、二通に分けようと思います。ここでは、AC理論が無意識の深層に影響を及ぼしているということと、AC信仰に陥ると無力化する傾向があるということ、この二点をご理解いただければ十分であります。 

(2022.7.24) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~30通目:ACについて(続)> 

 

 前回の続きです。 

 AC理論がその人の深層に影響を及ぼしているので、心の表層の部分(意識)にいくら訴えても彼らには響かないのであります。かつてAC理論が彼に与えたのと匹敵するほどの衝撃を受けない限り、その部分が動くことはないと私は考えています。 

 

 次に、彼らの無力化傾向のために、相当なことが彼に起きない限り、彼は改善のために動き出さないという事情があります。 

 人生や生活が彼に突き付けてくるものがあるのです。そこで彼らは激しい危機感を覚えて、ようやくカウンセラーの門戸を叩くわけであります。 

 しかしながら、そうして彼らが動き始めた時には、多くのことが手遅れになっているということも稀ではないのであります。これは、年齢的なものよりも、AC信仰期間の長短による影響の方が大きいと私は考えています 

 従って、もっと早い段階で彼には危機意識を持ってもらわなければならないと私は考えているわけであります。辛辣な表現をするのもそのためであります。少しばかり危機感を煽らないと彼らは動いてくれないのであります。 

 

 加えて、彼らは自分の問題を認識する可能性が制限されているのです。親にすべてが帰属され、そこで完結してしまうことが多いのであります。この自己完結に動揺をもたらさなければならないのであります。この自己完結に違和感を持ってもらわなければならないのであります。 

 これらの目的のためには、きつい表現をすることも私は辞さない。そこまでしなければならないと信じているからそうするのであります。 

 そして、AC信仰を捨てようという人には来ていただきたいと思うのですが、AC信仰を強化するために受けに来るという人はお断りしたいのであります。 

 

 最初に述べたように、僕は28通目を削除するつもりはない。運営側が削除するなら構いません。その削除は、僕のページを削除しただけではなく、AC信者の一つの可能性を削除することになるかもしれないということは、運営側にも考えてほしいところであります。 

(2022.7.24) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)  

 

 

<終わりに> 

 本項では高槻カウンセリングセンター便りの28通目から30通目を掲載しています。内容はすべてACに関するものとなりました。 

 28通目はグーグルさんにより削除されたのでした。これにはいささかの憤りもあり、そこから29通目と30通目が出来たのでした。 

 グーグルさんが削除するのは28通目が最初でした。以後、いくつかの便りが削除されることになるのですが、僕から言わせると、グーグルさんの方がどうしようもない。なんでこれが削除されないといけないのか、僕には分からないし、何がどう拙いのか、どの部分が削除の対象になっているのか、まったく何の説明も無しというのが腹立たしい。協力して適正な内容にしていこうという姿勢がグーグルさんからは感じられないのだ。それなら僕の方でも、僕は好きに書くから削除するのはご自由にどうぞ、という姿勢になってしまうのである。 

 それはさておき、AC信奉者たち、それも狂信的なまでの信奉者に会ったことのある人であれば、僕の言うことも多少は頷けるのではないかと僕は思っている。そういう人に訴えようとすれば、それ相当のインパクトを与えなければならないということもご理解していただけるのではないかと思う。 

(2023年7月) 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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