<自己対話編―8> 平成24年6月8日 

 

<対話> 

C:昨日も夢を見たんだけど、はっきり覚えていなくて。一つだけ覚えている場面は、トイレの中だった。和式のトイレで僕はそこにしゃがんで、用を足そうとしていた。何となく出たような感じがしたけれど、見たら何も出ていないっていう場面が記憶に残っている。何て言うのか、自分の中にあるものを出そうとして、十分出していない感じがしている。(1) 

T:それはなんだと思う?(2) 

C:多分、もっと感情的なものではないかと思っている。この対話編を書いていって、いつも思うのは、あまり感情表出がなされていないっていうことだ。もちろん、話すのと書くのとでは幾分違うものがあるんだけれど、書くことで感情を表出するのは僕にはけっこう難しいように思われている。(3) 

T:話す方がはるかにいい。(4) 

C:そうだ。本当は相手と対面して、こういうことが語れればもっといいのにと思う。でも、そういう相手がいないから、僕は自分の中で、自分で作り上げたイメージを通して、対話をしようとしている。不思議なものだね。語るのも僕自身で、聴くのも僕自身で、そうして一人で二役をこなして、対話らしきことをしているのだから。(5) 

T:何となく違和感がある?(6) 

C:慣れないうちはね。最近は少し慣れが生じてきたかもしれない。こうして書きながら、いや、語りながら、どこかで自分を客観的に見ているという感じがしている。語ると同時に語っている自分をも見ているという感じだ。その代り、僕が何か昔の出来事を書く時、その場面を十分に思い出しているとは言い難い。何か片手間に思い浮かべている感じがする。それがどうなのかなと心配になっている。(7) 

T:いくつもの作業を同時にこなさなければならないのだから、そうなるのも当然かもしれませんね。自分では何かしっくりこない感じがするのかな。(8) 

C:もっと、感情的になってもいいのに。感情的というか、もっと感情が込み上げてもいいはずなのに、そういうのが不十分な感じがしていて、どこかいつも不全感が残ってしまう。(9) 

T:充分にできている感じがしない。(10) 

C:こういう感じはいつも体験する。相手がいると、相手が辟易するくらい、しつこくなってしまう。僕自身が何か不全感を体験していて、それを何とかしようとして相手を引っ張ってしまうんだ。僕は僕自身になかなか満足しない。満足したら負けだとか、そんなことは思わないのだけれど、いつも何かし損ねたとか、やり忘れたものがあるんじゃないかっていう気持ちが残る。(11) 

T:例えばどういう場面でそれを感じるのでしょう。(12) 

C:面接をするとする。時間が来て、終える。クライアントはそれなりに感謝してくれる。でも、僕の中では何か不満足なものが残っている。そして、後になって、あの時こう言えばよかったのだとか、あの人の言おうとしていたことはこういうことだったのかって気づいたりする。でも、気づいた時にはもう遅いんだ。こうして僕はいつも不満を残すし、満足の行く仕事をした感じにならないんだ。(13) 

T:不満を残さないためには完全にしなければならない?(14) 

C:確かに、これは完全主義ではないかと思う。クライアントには関係のないことだし、クライアントからすれば、後になって僕がそんなふうにくよくよ考えているなんて知ることもないのだから、これは僕個人のこだわりに過ぎない。そういうことも分かっている。それに、これは終えた面接をいつまでも繰り返して、自分の中で終わらせないようにしていることだっていう感じも覚える。いつまでもやり直しをしているようなものだ。(15) 

T:やり直しが効かないということが苦しい。(16) 

C:だからいつも後悔する。後悔しないようにと万全期そうとする。そうしてあらゆる作業が停滞してしまう。いつまで経っても終わらないというようなことが生じてくる。よくのろまだって言われていたけれど、僕の中ではそういう事情がある。(17) 

T:あなたの中ではきちんと仕事や作業をこなしたいという気持ちがある。(18) 

C:ところが、これでは何もできないっていうことになってしまう。僕の完全主義も、若い頃に比べたらはるかにましになったものなんだけれど、それでもその傾向は多少残っている。このサイトの原稿だって、けっこう入念にチェックしてから公開している。よく考えたら、そこまで一生懸命に読む人なんていないということをどこかで自覚しているのにね。(19) 

T:もう少し手を抜いても構わないということ?(20) 

C:手は抜きたくない。でも、こうして書いていって、これを読む人なんているのかなって思ってしまう。誰にも読まれることのない原稿を書いていってるのではないかって、不安に思うこともあるね。(21) 

T:人が読んでくれているとは思えない。(22) 

C:本当は思いたい。だけど、それは分からない。業者は月々のデータを送ってくれる。それによると毎月一定数はアクセスがある。でも、アクセスした人がこれを読んでいるとは限らないし、一目見て、こんな活字だらけのサイトはゴメンだと言って、さっさと出て行ってしまっている可能性もある。僕の感じではそちらの方が数としては多いだろうなと思う。大部分の人はこれを読まないし、僕の書いたものを読んでいないだろうと思っている。(23) 

T:どうしてそう思ってしまうのだろう。(24) 

C:もし読んでいたら何か反応があるはずなんだ。でも、それがほとんどないし、実際にお会いしたクライアントでも、どこを読んでそんな間違った情報を信じたのって思うような場面にもよく出くわすよ。(25) 

T:誰もあなたの言葉に耳を傾けてくれないし、真剣になってくれないし、それで腹立たしいような思いも経験している。(26) 

C:まず、こういうネットなんかは字を読むのには適さないツールだと思っている。ページをめくるのと、スクロールするのとでは、まったく勝手が違うものだ。スクロールするのは、写真なんかを見る場合には便利だ。これはページに分かれていない方が見やすい。でも文章になると、スクロールで下に下に送って行くやり方では不便なんだ。これならまだ巻物の方がましというものだ。僕はそういう利用者にとって不便なことを敢えてやっているんだ。(27) 

T:自分でも不便なことをやっているなということが分かっている。(28) 

C:そうなんだ。僕にはサイトに掲載するような写真も絵柄も何もない。販売している商品があるわけでもないし。僕の顔写真なんて誰が見たいだろうか。僕はそこを常に拒んできた。一度だけ、このサイトにも僕の顔写真を掲載したけれど、見るに耐えないので削除してしまった。ちなみにこの写真はYさんが撮ってくれたものなのだけれど、僕がサイトから削除したというのを聴いて、ちょっと機嫌を悪くしたようだった。「せっかく撮ったのに」っていう感じだったな。でも、Yさんには悪いけれど、それでも僕は顔写真なんか載せるのはイヤなんだ。(29) 

T:誰にも見られたくない。(30) 

C:それもある。昔から写真に写るのが好きではなかった。自分の生き写しが紙の上に現像されるなんて、考えてもゾッとするような話だ。明治時代の人は写真を撮ると魂を抜かれるなんて信じていたようだけど、その気持ちも分からないではないな。自分が対象化されることはけっこう苦しいことだと僕は思う。どうしてみんな自分たちの写真を撮りたがるのか、僕には理解に苦しむね。はっきりと自分を見てしまうことになるのにね。(31) 

T:あなたもそうして自分を見てしまった経験がある。(32) 

C:今思い出したのは、小学生の時の運動会のことだ。父がビデオ撮影してくれたんだ。家に帰って見ると、「これが僕なの」っていう感じで愕然としたね。そこには背を丸めた、情けない自分が映っていた。情けない姿だなと本当に感じた。僕は猫背がひどかったのだけれど、実際に見て、あれほどひどいとは自分でも思っていなかった。この猫背には理由がある。当時、僕は一つの部屋で兄と布団を並べて寝ていた。兄がそれでいつも騒ぐのだ。僕の寝息がうるさいと。鼻が悪かったので、呼吸する時に音が出るのだ。今でも出る。鼾というほどではないのだけれど、兄はその音がうるさいと言って、いつもとやかく言う。それで僕は枕を高くして眠らなければならなかった。首が90度くらいになるまで、顔を上げなければならなかったんだ。それを毎日していると、立派な猫背の出来上がりなんだ。兄としては願ってもないことだったろう。憎い弟が惨めな姿になっていくのを見て。小学生の僕は年寄りのように背中が曲がっていた。あのビデオ撮影を見て、僕は自分がどんな姿をしているのか初めて知ったんだ。それは僕が思っていた以上の醜い姿だった。あれ以来ではないかな、僕は自分を写真や映像で見るのが嫌になったんだ。それでも生きていると、何かと写真に撮られることがあるだろう。仕方なしに撮影されるのだけれど、見る気にはなれない。中学や高校の卒業アルバムですら、僕は開かなかった。大袈裟に言ってしまったな。実際は開いてみたことはある。でも、すぐに棚に仕舞って、それ以来、ずっとそこに安置されたままだ。卒業アルバムを紐解きたくなるほどセンチメンタルな人間でもないのでね。(33) 

T:過去の自分を見ることはもっと辛い。(34) 

C:辛いね。見たくもないね。でも、見たくないというのは、写真や映像を通しての僕なんだ。こうして自分の体験を振り返ったりすることは、そういう形で自分自身を見つめ直すことはもっとしっかりやっていきたいと思う。写真なんて、その時の一瞬の出来事じゃないか。その一瞬が永遠に残るかと思うと、迂闊に写真なんかに写らない方がいいというものだ。その一瞬を捉えて、人は僕がこういう人間だということを勝手に決めていく。それもまた耐えられないことなんだ。(35) 

T:自分が間違って形成されてしまう、他の人たちの枠にあてはめられてしまうというような感じなのかな。(36) 

C:そう、自分でなくなっていくような感じを受ける。自分の姿を見るということはショックであるし、それだけでなく、その写真を見た人が勝手に僕がこういう人間だっていうことを決めてしまうのが恐ろしい。決めると言ったけれど、思い込むと言った方が正しいのかな。その思い込みは、一部は正しいだろうと思うけれど、間違っている部分もけっこうあるのではないかな。とにかく、現実の僕を離れて、未知の人の中で僕と言う人間のイメージが形成されていくという、その感じが僕には怖いんだ。僕の知らない場所で、僕が形成され、形成された僕のイメージと関わっている人がいるかと思うと、やっぱり怖いことだ。(37) 

T:そして、そういうことが実際にやられているだろうなということ?(38) 

C:そうだと思う。以前にマイベストプロ大阪で掲載した時には、どうしても顔写真を掲載するということが条件だったので、渋々承諾したのだ。そして、クライアントたちはその写真を見て訪れたし、当時継続していた人たちも敢えて写真を見たりするんだ。彼らとしては悪意のないことだろうけれど、僕の知らない所で、僕の写真が見られているというのが、何となく居心地の悪い体験だった。(39) 

T:それよりかは現実に会ってくれる方がずっといいのにということ?(40) 

C:そう。会って、僕を知ってくれることの方が僕は嬉しいんだ。写真だけを見て、こんな人かって一方的に枠づけられるのは、僕には苦しいんだ。(41) 

T:そういう写真だけ見て思い込まれるよりかは、実際に会って、あなたを知って欲しいと思っている。誤解されたり一方的なイメージを抱かれたりするのが、あなたには怖いのですね。(42) 

C:実は、これは複雑なんだ。写真を撮って、仮に掲載でもしよう。その時、一方ではいろんな人に僕のことを見て欲しいなという気持ちもあるんだ。だから、僕を見て欲しいという気持ちがある一方で、その写真だけで僕を決めつけないで欲しいという思いもあるんだ。(43) 

T:そんなふうに決めつけられるということがイヤなんですね。(44) 

C:不快に思う。カメラマンがシャッターを押した瞬間の僕でしかないのにって思う。日々、僕は変わっていっているのに、写真の中の僕はその瞬間のままだ。写真しか見ない人にはそれ以後の変化を受け入れることができないだろうと思う。そして、何よりも、こういう人だって、決めつけられるのが不愉快なんだ。人生の一日のある一瞬を捉えて、この人はこういう人なんだろうって決めつけられるのがイヤなんだ。これは僕だけでなく、他の人に対しても同じように考えてしまう。そこには変化が入り込む余地なんてないんだ。(45) 

T:あなたは日々変化しているし、そういう変化していってる今の自分を見て欲しいと思う。(46) 

C:昔の自分はあまり見て欲しくないと思う。そこでこういう人だって決めつけられると、それを覆すのは難しい。その人は、僕がこういう人だって決めつけている。その人は僕の言動から、自分の評価に一致する部分を優位に見出してしまうだろうと思う。自分の評価に該当しないところは、あたかも例外扱いにして、見過ごしていくだろうと思う。僕は変わっていっても、その人の中では僕は変わることがない人間になってしまう。その人と現に会うとする。相手はイメージの僕を見る。現実の今の僕ではなく。きっとそうなるだろうと思う。僕その人との関係を円滑にしていこうとすれば、どうしてもその人が抱く僕イメージに僕自身が近づかなければならなくなる。僕はそういう圧力を感じてしまう。こうして、僕はその人によって、僕自身ではなくなってしまう。その人との関係において、僕は他者化されてしまう。この恐怖感はなかなか理解してもらえないのだ。サルトルの他者とか視線とかの分析は、見事にこれを表現してくれているので、僕は読んでいて嬉しくなった。こういう体験を見る人がいるんだと思ってね。だからサルトルが好きなんだ。僕が写真に写りたがらないのは、僕が恥ずかしがっているからだと、大抵の人は思い込むんだ。そうして彼らの中で、僕は恥ずかしがり屋だというイメージが植えつけられていく。まあ、恥ずかしがりというのは、かならずしも当てはまらないわけではないのだけれど。僕は確かに恥ずかしがり屋でもある。でも、写真に写りたがらないのは、恥ずかしいからではないのだ。その写真が、それを見た人によって、僕を僕でなくならせるからなんだ。僕は現実の僕とはかけ離れた他者になってしまうのだ。僕の写真によってそういうことが起こりそうなんだ。だから大学生以降、20歳以降というもの、僕が映っている写真は数えるほどしかない。(47) 

T:勝手にイメージを作り上げられることが怖い。それはあなたに対してある種の決めつけで、あなたはあたかもこういう人間だということを強制されてしまうように体験している。そして、そうやって出来上がったイメージは、覆すこともできないし、どんなひどいイメージであれ、あなたはそれを受け入れざるを得ないという感じがする。(48) 

T:すごく拘束される感じがしていまうんだ。今思い出したんだけど、映画で「ゴッドファーザー」というのがある。マフィアの映画なんてって、僕は興味すら抱かなかった映画なんだけれど、大人になって、とても有名な映画だからということで、取り敢えず見てみようということにしたんだ。そうして見たら、すごくハマってしまったね。とても怖い映画だった。そんじょそこらのホラー映画よりも怖いと思ったね。何が怖かったかって言うと、彼らが脅しをかけて、相手を雁字搦めにしていくところだ。確か「有無を言わさない方法で」とかいうように字幕では出ていたように思うのだけれど、脅しをかけて、否を言わせないようにしていく手口が怖かった。穏やかに拘束していくような感じだった。ゆっくり締め上げていって、自由を失わせる。僕にはそういう感じがして、なんだか、僕自身が束縛されていくような気分を、見ていて体感したんだ。身動き取れないようになっていく、拘束されていくということが、僕にはとても怖いんだ。(49) 

T:それはマフィアの脅しの手口でも、写真を見てイメージを決めつけることでも、同じようにあなたには怖いのですね。(50) 

C:両者はまったく違ったものだと人は言うかもしれないけれど、僕の中では同じことなんだ。僕が僕ではない人間にされてしまうというのが怖い。怖いと言えば、「エクソシスト」も物凄く怖かった。ある朝、目が覚めたら、夕べとは別人のようになってしまっているというあのシチュエーションがたまらなく怖かったんだ。その前日までは可愛らしい女の子だったのに、一夜明けると、醜い形相になっていて、汚い言葉や反吐を撒き散らすとかするわけだ。自分の意志に反して、そういう姿にさせられてしまうのだ。映画では悪霊が憑りついたということであるが、自分の意志に反して変えられてしまうということがすごく怖かった。(51) 

T:そろそろ時間なので、ここまでにしましょう。あなたはそうしてあなたが恐れていたことをもっと語ってもいいのですよ。(52) 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

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