<Cとしての感想>
僕の中ではいろいろな発見があった。旅行から帰ってきたばかりで、何一つ自分自身のことを振り返ることもできていない中での自己対話だったけれど、いくつかの事柄にかんしては見えてきたこともある。それに幾分、旅行のことの整理がついた感じがしている。Yさんとの関係において、僕がどういうことをしているかということも何となく気づき始めているような感じがしている。一番、大きな発見は、僕にとって大きいということなのだけど、僕が自分の抱えている罪悪感を彼女との関係を通してでないと触れることができないということだった。そんなふうに考えたこともなかったし、それが罪悪感であるということも改めて実感したことだった。疲労した状態での対話編だったけれど、僕はやって良かったと思えている。
<解説>
(1)旅行から帰った後の対話編であり、Cは気分が引き締められないと述べているほど、疲労感を色濃く感じる。
(2)Cの疲労感に対して、Tはそれを探求するよう促している。もう少しCを労わってもいいところである。
(3)Tの質問に応じるC。この辺り、Cは非常に従順である。Cは旅行そのものもあまり好きではないと語っている。それよりもYさんとのことで気疲れしているようである。これはCとYさんとの差異をCは体験しているということである。軽い怒りの感情が発露されている。
(4)TはCの感じを明確化している。「そこは」という形で限定している点は望ましい。Cはその部分に関しての不平を語ることができるだろうからだ。
(5)CはYさんの行為に賛同できないでいる。しかし、それはC自身が恥ずかしいと感じているからであり、自分のためにそういうことはしないでほしいと願っているというのは、一つの洞察である。彼はこの感情をYさん個人に還元しないように気を遣っているようだ。
(6)Cの発言を確認する応答である。
(7)Cはさらに洞察を一歩進める。CにはYさんの行動で賛同できないものがある。それは半分C自身のために止めて欲しいと思っている。これが子供っぽい感情であるという洞察である。
(8)Tは子供っぽいということがどういうことなのか、Cに尋ねる。
(9)しかし、Cはそれに十分には答えられていない。いささか知性化した返答である。Cの言うところでは、自分とYさんの違い、特に価値観の違いを容認することが困難だと感じており、自分とは異なった価値観を認めることができていないということが子供っぽいということのようである。彼の願望はYさんに対しておおらかでありたいということであるが、それができていないように感じている。ここにCの葛藤がある。
(10)Tの応答は拙いわけではないが、これはCの否定的な側面に光を当てることになる。むしろ「おおらかになれないって、例えばどんなことがあったの?」と、その体験を尋ねていく方がいいだろう。あるいは、「あなたはおおらかでいたいのだけれど、気がつくと、おおらかでいない自分になってしまう。それが辛いと感じていることなのですね」と、Cの葛藤の苦しさに焦点を当ててもいいだろう。
(11)前半ではYさんや今回の旅行に対しての否定的な見解が述べられるが、後半は主題がすり替わってしまっている。前半で彼が述べたいことは、自分もそれだけの負担を負ったのだから、せめて楽しそうにしてほしいということである。少々無理をして今回の旅行を実行したかのようである。ここでCが述べていることがそれほど間違ったことなのだろうか、Cは案外まっとうなことを言っていると仮定してみればどうだろうか。CはYさんのためにいささか無理をして旅行を実現した。Yさんが愉しそうにしていないのをCは見てしまう。こういう時、人はどのような種類の感情を体験するだろうか。おそらく、ショックとか失望とか、傷つきといった感情ではなかろうか。そして、その感情はこの場にそぐわないものであるだろうか。どうもそうとも思われない。従って、この感情そのものはおかしいものではないのである。ただし、Cが本当に苦しんでいるのは、Cのそういう思いがYさんに伝わっていない、あるいは伝えられないでいるということにあるのではないだろうか。彼は今回のために一日仕事を休んだという、それに対しての罪悪感があるという。ここから以前の女性友達のMさんとのことが話に出てくるが、これは罪悪感に対して向き合うのを避けていることを意味している。罪悪感というのは非常に複雑で曖昧な感情である。Tはこの言葉に注意しておく必要がある。この罪悪感がどのようなものであるかは、今の所よく分からない。
(12)ここはTの上手いところである。TはCが話題を転じる前の話題に戻している。
(13)ここでこの旅行の意味、Cにとっての意味が語られる。Cがなぜ無理をしてまでこの旅行を実現させる必要があったのかが、ここから理解できる。CはYさんを変えたいと願っているのだ。Yさんに、自分が主張したことは実現できるのだということを体験してほしかったということである。そのためにCは幾分無理をしているのであるが、この無理しているという部分がどうもYさんには分かって貰えていなくて、それで怒りを感じているようである。しかし、怒りを抑えているがために、その怒りは罪悪感としてCには体験されているということである。ところで、このようなやり方は、CがYさんと関わる際の関わり方、Cの愛し方であるかもしれないので、記憶に留めていくことが望ましい。
(14)Tの応答は間違っているわけではないが、いささか直接的である。それよりも、「その気持ちを彼女に分かって欲しいのですね」と、Cが体験している感情に焦点を当てる方が望ましい。
(15)ここでもCの願望が語られる、後半の「実現すればそれでいいということでもある」というのは、彼の体験している怒りが静まり始めたことを表す。
(16)何度も言うが、これはCとTが同一人物である。Cが述べたい事柄をTが述べてしまうというような、現実のカウンセリングではそうそう生じない出来事が頻繁に生じてしまう。この点は常に考慮しておかなくてはならない。(15)に対して応答するなら、「とにかく、あなたのできることはしたという感じはしているのですね」といったものでいいだろう。「神経を使い、楽しめていない」というのは、Cが提起する問題である。それをTの方が提起してしまっている。
(17)先の(15)で幾分怒りが静まり始めたというのは、ここでのCの発言からも窺われるのである。CはYさんに目を向ける余裕が生まれている。彼女の方も彼に気を遣っていたのかなというところに話が及んでいる。これは当然あり得ることである。
(18)Cの発言を反射するような応答である。特に問題のある応答とは思えない。
(19)ここで旅行の話が展開される。こういう話はTとしても興味を持って耳を傾けていればよい。彼にとっては非常に疲れることになった体験であるが、こうして語るようになったということは、自分とその体験との間に距離が生まれているからである。そして、この旅行は彼女にとっても酷だったのではないかと語っている。ここはCの視野が広がっている部分である。Yさんが愉しそうにしていないのは、単に状況が彼女にとって酷だったからかもしれないという可能性が生まれてきているわけだ。これは新しく生じた可能性でもある。C自身とは直接関係がないかもしれないという可能性である。最後に、彼の望むままに過ごしたらYさんは退屈するだろうと語っている。このことはまた後に出てくる。
(20)それを受けて、Tが応答している。これはこれでいい。もう少し穏やかに言い換えるなら、「あなたが望む通りの過ごし方をすると、きっとYさんは退屈するだろうと心配なのですね」という感じになるだろう。
(21)ここでも一つの洞察である。彼女が愉しそうにしていないとする。それが彼女の自然な姿であるなら、自分の方がそれを受け入れるべきだという洞察である。CはもはやYさんに対する怒りの感情よりも、もっと建設的な感情に目を向けている。後半の話によると、Yさんの望みは一日目にあったということである。二日目(つまりこの日)はCの望みだったということであり、Yさんが合わせてくれたのかもしれないと考えるようになっている。そこまで考えが及ぶだけ、彼は気分が解放されているのだということが窺われる。
(22)Tの応答であるが、特に問題があるわけではない。もし、Tが罪悪感というキーワードを覚えていれば、「そこで罪悪感を感じてしまっているのかもしれませんね」と取り上げることもできただろう。
(23)いくらか話が脱線しがちである。もっとも重要な点は、自分が風呂嫌いなので、そのために彼女の愉しみを奪ってしまったのではないだろうかという罪悪感にある。
(24)Tの応答はCの罪悪感に関わるものである。
(25)彼はせっかくのお風呂の愉しみをYさんに十分与えなかったのではないかということで、罪悪感や後悔の念に囚われているようである。
(26)Tは視点をYさんに移してしまっている。これはCとTの共謀関係の表れである。Cは自分の罪悪感に向き合いそうになっている。そこでTが共謀してしまって、Tが話題を逸らせることになっている。CとTが同一人物であるために生じている共謀である。ここでは、次のように伝えることもできる。「あなたはお風呂が愉しめないので、こういう自分と一緒だからきっとYさんも楽しめなかったのではないかって思うのですね」というものだ。これはCが子供っぽいと言っていた部分に通じる。彼は自分が愉しめていないからYさんも楽しめていないんじゃないかと感じてしまっている。でも、それはある種の同一化体験であり、Yさんに自身を投影してしまっていることを意味している。それだけ、彼はYさんとの間で自他の区別がつきにくい状態にあったのだろうということが窺われる。そして、このことは、Cの中でYさんと融合的な関係を築いていたのではないだろうかということを推測させる。
(27)先のTの応答がCと共謀的であったためであろうか、Cは自分が罪悪感から解放されているという体験をしている。自分がそれほど罪悪感を覚える必要はないのではないかという形でそれを表明している。最後の、自分の罪悪感はYさんとは関係がないかもしれないという洞察は確かに正しい。しかし、洞察すべき点が間違っているのである。Cは無理をして旅行を実現した、それはYさんのためである。一日目は彼女の希望である。彼は苦手な温泉に入っている。彼女に付き合っているのである。二日目は彼の希望であるが、彼はYさんを振り回したように体験している。楽しめなかったのは彼自身であるかもしれない。それをYさんが愉しめていないというように体験している。事実Yさんには酷だったという部分があるのではあるが、肝心なのは「僕が愉しめていないとYさんに悪いのではないだろうか」という感情が最初にあったのではないかということである。でも、彼は自分も無理しているのだからという思いがあるのか、自分の非として認めたくないという感情もあるのだろう。それが「彼女が愉しそうにしていないので、僕が辛い」という文脈に入れ替わってしまっているのだ。この入れ替わりは、CがYさんとのある種の融合的な関係の中で生じたことではあるが、CはいささかYに投影同一視していることを意味している。なぜ、このようなことがCに生じたのかということは、ここまでのところでは十分に説明できない。それにはまだまだ不明な点が多いからである。しかし、Cが体験している罪悪感とはそのようなものなのである。罪悪感への洞察が十分に至らないとは言え、彼の罪悪感がYさんその人とは関係がないかもしれないという点は、確かに大きな発見である。
(28)Cの洞察を後押しするTの応答である。
(29)Cの洞察は核心に近い所まで行っている。彼は自分の罪悪感を表現するためにYさんを利用する形になっているということに理解が至っている。そして、自分が理解しなければならないのは、その罪悪感であり、彼自身の内側にあるものなのだという方向性が見えている。
(30)Tの応答。これはより正確に言えば、「誰かとの関係の上でないと表面化してこない罪悪感なんですね」ということである。関係という概念を持ち込むことが望ましかったと思う。
(31)自分の罪悪感、もしくは罪悪感の基になっているものに触れることができないと語った後、Cは二つの体験を話している。旅行の一日目、食事中に自分がいじめられた時の光景がフラッシュバックのように脳裏に浮かんだということである。それから夢であり、夢に影響されてパン食したというエピソードだ。Cにははっきりと意識化できていないのである。意識化できていないがために、記憶や回想、夢やイメージとして彼に押し寄せてくるのである。
(32)TはCの解釈を尋ねている。
(33)現実のカウンセリングでは、クライアントがここまでスラスラと解釈を語ることはない。夢ではパンを上手く入れることができないということで、彼は女性に詫びている。もちろん、なぜ上手く入らない方のパンが女性のものだと分かったのかは不明である。それでもCの解釈はそれでいいだろう。夢の中の女性は彼に「自分を責めないで」と伝えているわけだが、彼はそれを自分ものとして吸収するために、現実にパンを取ってしまっているという解釈である。この時、彼は夢と現実の区別を一時的に失っている。無意識に任せている。意識的な在り方を喪失していたことになるのではないだろうか。これがなぜもたらされたのかは考えてみなければならない。
(34)Tの応答。意識化できていないがために、Cはイメージでしか述べることができないでいる。従って、Tの応答もそのイメージに関わらざるを得なくなっている。
(35)Cはより具体的な関係で述べ始めている。無条件に従う、従わせるという関係が自責感情とつながっているのではないかという、一つの洞察を得ている。
(36)Tのこの応答はいささか解釈的である。「無条件に相手に従う、従わせるという関係が辛いのですね」とか、「対等でない関係があなたを苦しめてしまうのですね」といった応答の方がCに沿っているだろう。
(37)先のTの応答に沿ってCが返答している部分であるが、ここでも洞察が見られる。彼が自分を責めるのは、それだけの力がまだ自分にあることの証明、つまり完全な無力感に陥ることを防いでいたという洞察である。そして、この洞察はYさんとの関係に照らし出されている。どちらかが従うという関係を、役割を交代しながら築いているのではないかという理解を述べている。
(38)Tの応答。
(39)彼が望む関係の在り方が語られる。彼の理想とする関係はお互いに主張し合って、一緒に決めていくというものだ。しかし、Yさんはそれをするのが不得手な人だという。そこにCは矛盾を感じている。これも大きな発見なのである。彼はそういう関係を望んでいる。でも、そういう関係を築けそうにない相手を選んでいる。これは何を意味するだろうか。彼は実際にはそういう関係、理想的な関係に入って行くことに不安や恐れがあるということではないだろうか。では、それはどのような不安なのであろうか。ここをTは問いたい所である。
(40)Tはただ、そこに苦しんでいるものがあると示唆するだけに終わっている。
(41)しかし、Cは自ら自分の体験している困難を語っている。意見を言い合って、ケンカになることを避けたいのだと述べている。
(42)Tは二次的に重要な点に触れている。もっとも重要な点は、意見を言い合うことが即ケンカにつながるというCの認識である。こんな風に疑問を投げかけてもいいだろう。「意見を言い合うということは、必ずケンカに発展するという意味でしょうか」といった具合にである。このCの認識、「意見を言い合う、即ケンカ」という認識は、認知の歪みと言っても構わないのだけれど、彼にはお互いに意見を言い合うという関係の適切なイメージや体験が欠如しているということを表すものではないだろうか。従って、「意見を出し合って、一緒に決めていく」関係がいいと言うのは、彼が頭で考えている関係であって、彼自身には具体的なイメージや体験が欠けているわけであり、それらが欠けているがために、それは不安を喚起するのではないだろうか。そこで喚起された不安が「ケンカになるのでは」という形を取ってしまっているようである。
(43)やはりCはなんらかの不安を体験しているのだと思う。彼はいかにも不安なことを述べている。もし、現実にケンカになったとしたら、それに付き合えるかどうかという不安である。そして、これはお互いに意見を出し合って、一緒に決めるという理想的な関係からは程遠いということでもある。つまり、一度ケンカになったら、理想的な関係はもはや望めないという恐れなのだろう。これはCにとっても挫折であり、絶望である。
(44)TはCに今後とも今回の旅行を振り返ろうと提案している。Tはなぜこのような提案をしたか。何かが不完全であるように体験されていたのだろう。不全感から来ているのではないかという感じがしている。これはつまり、何か大切なことは話し合われたのだけれど、それがよく掴めていないがために、もう一度、振り返ろうと提案しているということである。
(45)CはTの提案を受け入れる。この対話編では両者は同一人物なのであるが、カウンセリングにおいて、このようなやり取り、つまり(44)と(45)のようなやり取りが生じる時には、クライアントにおいても何か重要なことが取り上げられたという感じはしているのだけれど、それがどういうものなのかははっきり掴めていないというような体験をしていることがよくあるように思う。
(46)終了。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)