<テーマ173>H氏の事例(5)
(173―1)H氏、弁護士を雇う
(173―2)妻からの手紙
(173―3)「洗脳」再考
(173―4)H氏の観念はH氏の何を助けているか
(173―5)5回目の面接より
(173―6)H氏の事例~終わりに
(173―1)H氏、弁護士を雇う
一か月半ほどのブランクを挟んで、H氏との5回目のカウンセリングが実施されました。仕事の都合でそれだけ空いてしまったとH氏は述べます。
彼の言い分ではお金を稼がなければならないので、仕事は断れないということでした。実際にはこのカウンセリングが不本意で、抵抗感を強めていたのだということが私には分かっていました。
5回目の面接において、開口一番、自分も弁護士を雇ったとH氏が話します。
私は驚いて、この間に何が起きたのかを尋ねました。訴訟でも起こされたのかと思ったのです。
彼は、何も起きていないけれど、向こうも弁護士を立てているのだから、こちらも立てておこうと思った、それに法的な事柄に関しては意見も聞きたいからと答えました。
彼からすると、このカウンセリングはなんら自分を弁護してくれるものとは映らなかったのでしょう。だから直接的な弁護を専門家に依頼しているのだと思います。
H氏のようなタイプの「加害者」は、自己弁護する機会がいずれ訪れるものだということを信用できないのです。今すぐ弁護しなければいられないのでしょう。そして、今すぐ自己弁護しなければいられない、その弁護を相手に受け入れさせなければならないというのは、そのままDVの構図の延長上にある現象なのです。
実際、「加害者」には大抵の場合、自己弁護する機会、自分の言い分を言う機会というのがどこかでやってくるものです。それには「被害者」側がそれに耳を傾けてもいいと思えるくらいにまで「加害者」に対する感情が回復していなければならないのです。
相手の状況を無視して、自分の何かを押し付けるような行為として捉えることができることから、これはDV関係、「暴力」の延長にある現象だと言えるのです。
そして、彼は弁護士を雇いました。これがどういうことなのかを考えてみましょう。これまでは彼と妻の間に妻側の弁護士が入っていました。この妻側の弁護士を通して接触がなされていました。それが、これからは両者の弁護士を通さなければならなくなるということです。
これもまたDVの構図なのです。その構図の延長上に生じる現象なのです。私はそう考えています。ただ、行使する力の種類が違っているだけなのです。H氏が妻に直接やってきたことを、今度はH氏の弁護士が妻の弁護士に対してやるだけなのです。DV関係の構図は何も変わっていないのです。
(173―2)妻からの手紙
前回の面接から一か月半、その間に妻からの手紙がH氏に送られてきたそうです。彼はその手紙を私に見せて、読んでくれと頼みます。
あまり人様の手紙は読みたいとは思わないのですが、彼が読んでくれと頼むので、目を通させてもらいました。
その手紙は、奥さんの近況が書かれているだけのものでした。彼の妻と子供が施設に入ってからのことが書かれていました。奥さんは奥さんで頑張っているんだなあというのが私の正直な感想でした。
読み終わって、私は「この手紙はHさんには腹立たしいものなんですね」と問いかけてみます。
彼は「私も悪かったっていうような反省が書かれていない」と言って、そこを憤慨されているのでした。
私「Hさんとしては、当然、謝罪の文面であるべきだと、そう思っていたのですね」
H「もう許せない。そんな感じです」
彼の言うところによると、妻もまた施設で「治療」を受けているのに、その成果が見られないということになるようです。Hさんの観点では、妻が「自分にも悪い点があった」ということを認めて、ようやく向こうの「治療」が成功したということになるのでしょう。ところが、その「治療」は妻を洗脳しているだけだと言ってH氏は憤ります。
妻の謝罪が見られなかったので、彼は弁護士を雇い、何が何でも妻からの謝罪を手に入れようとしているのかもしれません。いずれにしても、H氏がどれほど自分の思い通りにならない状況に耐えられないかが窺われます。
この手紙は妻が近況を報告しているだけのものです。第三者が読むとそのように見えるのです。恐らく、彼は自分の読んでいるものをそのまま理解できないでいるのだと思います。自分が何を読んでいるのか、彼自身分からなかったのではないかと思います。彼は混乱して、いろんな感情をその文面に投げかけてしまうのだと私は思います。
また、H氏が妻に謝罪を求めている気持ちの背景には、彼のこれまでの反省ということも含まれているようでした。彼は今回のことで繰り返し反省し、度々反省の言葉を妻に送っているようでした。これまであまり触れてきませんでしたが、このカウンセリングでも彼は反省の言葉を述べています。反省については個別に取り上げることにします。
(173―3)「洗脳」再考
ここで再度「洗脳」ということを取り上げることにします。H氏をはじめ「加害者」は時々この言葉を使うのです。「被害者」は親族や周囲の人、あるいは施設の人とかカウンセラーや精神科医から「洗脳」されていると主張されるわけです。
彼らの言う「洗脳」は、厳密に言えば、洗脳の定義に一致していないものです。洗脳とは、ある人が所有している古い信念や観念を、それとは別のその人に属していない新たな信念や観念に、意図的に代えていくことを言います。そのための特有な手段や手続きが用意されているものを指します。大雑把ではありますが、洗脳とはそういうものです。
洗脳の研究から明らかになったことは、私たちの持つ観念とか信念、思考というものは、それが正しいか間違っているかに依存していないということです。その信念が正しいからそれを受け入れているのではなく、その信念を受け入れ、自分のものにしていく方が、その人の置かれている今の状況に適応的に作用するからなのです。
例えば、自分は罪を犯していないのに、罪を犯したと洗脳されているという場面を想像してみましょう。苦しい拷問に耐え続けるよりは、罪を犯したという信念を受け入れ、自分の信念にしてしまう方が、その状況においては、その人の生を可能にしていく道が開けるように見えるわけなのです。
もし、H氏の言うように、妻が施設で洗脳されているということであれば、その施設で洗脳に用いられる手段や手続きがなされていなければならないということになります。もちろん、H氏はその証拠を示すことができません。
(173―4)H氏の観念はH氏の何を助けているか
私たちは間違った観念や思考でさえ、それを自分のものにしていくことが可能なのです。それが自分の生を維持してくれて、助けてくれるものと思われる限り、それが可能なのです。
H氏は「妻が洗脳されている」という観念を抱えています。彼がその観念や思考を自分のものにしているのは、それによって彼の何かが救われているからだと考えることもできるのです。
では、一体、H氏はその観念を所有することで、一体、どのようなことを述べているのでしょうか。彼の何がそれによって救われているのでしょうか。それを少し考えてみたいと思います。
H氏にとって不利なことは、彼には妻に手を上げたという事実が残っています。そのために妻が怪我をしたという事実も同じように残っています。彼は、少なくともその場面においては、「加害者」でした。妻は「被害者」になりますが、妻が自分は「被害者」だと主張すると、彼の方はそれは「洗脳」されているからだと主張しているわけであります。
つまり、妻は「被害者」だけれど、「被害者」であってはならない、そのように主張することは間違っている、そんなふうに主張できるのは「洗脳」されているからだということになります。R・D・レインの言う「安住できない境地」に妻は追い込まれています。そして、このようなやり方は、それ自体「暴力」的なのです。
H氏は自分が「加害者」であること、並びに、暴力そのものを否認しようとしていると考えられるのであり、そのためには「被害者」は「被害者」であってはならないのです。妻がそれを主張すると、とたんに「洗脳」されていると考えてしまうのは、そのように考えない限り、H氏は否認しているものを目の前に差し出されてしまうからです。直視してしまうからです。必死になってその事態を避けようとしているのだと理解することができるのです。
(173―5)5回目の面接より
上記のようなH氏の傾向を踏まえて、5回目面接を続けましょう。
私「どうしても奥さんには非を認めてもらいたいと思うのですね」(1)
H「きっかけを作るのはいつも向こうなのだから」(2)
私「だからそれが当然だということになるのですね」(3)
H「それが、俺ばかりに責任を押し付けてくる。施設の連中もそれを促して、洗脳していってる」(4)
私「先に奥さんの方が非を認めるべきだということでしょうか」(5)
H「確かに暴力をふるったのはこちらだけど、なんでこっちばかりが責められないといけないのか」(6)
H氏の(2)の発言は、やはり彼が妻の方に焦点を当てていることが窺われます。(4)では「責任を押し付けてくる」ということでやや自身が関与していますが、すぐに施設の洗脳ということに視点を移しています。(6)はようやくH氏自身が関与している発言が見られますが、彼は自分の暴力を認めながら、自分の方が迫害されているという話に持って行っています。暴力の話は逸らされています。
H氏は自分が責められていると体験しています。それはそれで悲痛な訴えであります。ただ、現実の暴力の履歴が残っているために、彼は窮地に立たされています。
彼はその暴力は間違っていないと信じています。そして、妻がそうさせているというように体験しているのです。
この時、彼は自分の「暴力」観を話されました。彼は暴力も時と場合によっては必要だと話します。例えば強盗に襲われた時には、自衛のために暴力で応戦しないといけないというようなことをH氏は話します。
私はここで少し「対決」を試みました。
私「では、妻が家事をせず、子供を放ったらかしにしている光景は、Hさんにとっては強盗に襲われるくらいの危機感があったのですね」
そう応じてみました。次に続いた彼の言葉は、「俺は俺で反省している」というものでした。彼は体験している危機感とか恐れに関しては目を背けようとしていることが窺われます。
ここから話し合いは「反省」ということに移っていくのですが、彼は自分なりにこれまでかなり反省してきたと語ります。妻にも、言葉で、文面で、メールなどで度々反省を伝えてきたと言います。
私「その反省はきちんと伝わっている感じがしますか」
H氏「妻は洗脳されているから、いくら反省を伝えても伝わらない」
彼はそう言います。次項において、なぜ彼の反省が妻に伝わらないのかを考察することにしますが、そのことまでもが洗脳によるものだと彼には解釈されていることが分かります。
「それが洗脳のためだとおっしゃるのですね」といささか批判気味に伝えました。私はいくつか反省についての説明をしました。彼はそれを聴いて、「そう言われると、自分にはまだまだ反省が足りないように思う」と述べました。
こうして5回目の面接は終了し、二週間後に6回目の予約をお取りになられました。しかし、H氏との6回目のカウンセリングは実現することなく終わりました。彼は無断キャンセルし、この5回目が彼との最終の面接となってしまったのです。
(173―6)H氏の事例~終わりに
以後、H氏と会うことはありませんが、彼はやはり弁護士を必要としていたのだと思います。自分が弁護されている気がしないという感情が強かっただろうと思います。
私は私なりに、カウンセラーとして彼の立場を守ろうとしていました。力不足な点もないわけではありませんが、弁護士のような弁護は私の仕事と能力を超えているということも認めないわけにはいきません。
彼の望む弁護は、結局のところ、妻との全面戦争に至ることでしょう。それを避けようとしてきたのですが、彼はその方を採用するでしょう。
彼の心的在り方においては、やはり暴力の関係に、DV関係の構図に留まり続けたままでした。公平に言えば、H氏だけではなく、「加害者」は、自分ではそこから抜け出したと信じていたりしますが、丁寧に関係を見ていけば、まだDV関係に生きていることの方が多いのです。「加害者」はそれに気づいていないし、それが見えていないということの方が普通なのです。その渦中に居るがために、「加害者」にはまだそれが見えていないのです。
以上がH氏とのカウンセリングの顛末でした。次項において、H氏はじめ「加害者」側のする「反省」ということを取り上げることにします。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)