<テーマ149>自我親和性から自我異質化へ(3) 

 

(149-1)前項までの振り返り 

(149―2)ルール、パターンの特質 

(149-3)異質化の体験は動揺をもたらす 

(149-4)抵抗は人間的な過程である 

(149-5)変化への抵抗を示した一事例 

 

 

(149―1)前項までの振り返り 

 カウンセリングの技法というものは、それがどの学派のものであれ、それの目指していることの一つはクライアントにとって自我親和性を有していたものが自我異質化されていくプロセスへとクライアントが入って行くことであると、私は捉えています。 

 精神分析派の解釈投与であれ、ロジャース派の反射であれ、NLPのリフレーミングであれ、それらはすべてクライアントの自我異質化を推進していくものであると私は理解しています。 

 自我親和性というのは、その人が有していて、その人にとっては馴染となっているルールのようなものだということを述べました。それが当人には自然なことなので、親和性を有している限り当人がそこに疑問を覚えることはないのです。 

 そのように思考し、反応し、行動するということは当人にとっては自然なことであり、いわば当たり前のことなのです。周囲がいくらそこが間違っていると指摘しても、それが当人の自我に親和性を有している限り、変えようがないのです。そればかりか、そこを指摘してもその人から激しい抵抗を受けるのがオチなのです。 

 そのため、当人が自らそれに気づいていくということがどうしても必要になるのです。周囲の援助者ができるのは、その気づきを手助けし、その人を支えるということだけなのです。当人が自ら気づき、自我異質化への過程に入って行くことが望ましいのです。私はそのように考えています 

 この自我異質化への過程は、その後のクライアントの変化の動機づけになると同時に、クライアントに大きな葛藤や抵抗をもたらすものでもあります。ここはクライアントにとっても一つの修羅場になるのです。 

 以上は前項までにおいて論じた部分でありますが、本項では異質化に伴う抵抗ということを中心にして述べる予定をしております。 

 

(149―2)ルール、パターンの特質 

 自我親和性を帯びている事柄とは、その人にとってはいわばルールとかパターンのようなものであります。ここでルールやパターンということが有する特徴について一つ述べておこうと思います。少し脱線するかもしれませんが、本節ではそれについて述べることにします。 

 まず、ルールというものは、それが法律のものであれ、校則や社則のようなものであれ、交通規則のようなものであれ、単独で存在しているものではありません。一つのルールは他のルールと関係し合って存在しているものです。これがルールというものが持つ特徴の一つです。 

 個人の内面における、個人的なルールもまた同じことなのです。次の実例を見てみましょう。 

 ある男性は、上司の前では緊張してしまうというルールを有していました。その上司の前では緊張して、いつも失敗をしてしまうのです。これもまたルールであり、パターンです。そして、彼が失敗すると、上司から叱責されてしまうのですが、こうしたパターンを生み出しているのもまた一つのルールなのです。一方、上司からの叱責によって、彼は贖罪したかのように感じ、自分の責任から解放されるように感じるというのも、この男性のルールでした。そして、この解放感が、彼をして、物事に消極的になることを自ら許してしまっているということもまた彼の有するルールだったのです。 

 このように、一人の人が有するルールには、二重三重の構造を有していることも多いのです。彼は上記のような流れが繰り返されることに対して、それが当然であるかのように体験されていたのでした。 

 ここにルールが簡単には変えられない理由の一つが見られます。一つのルールに他のルールが併存しているのです。一つのルールは不都合かもしれませんが、それに伴う他のルールは必要であるという場合もあるのです。従って、どこか一つのルールを変えるということは、その他の多くの領域の変化も要求されるのです。一つのルールがなかなか変えられないということには、こうした事情があるものなのです。 

 そのようなことは社会規範や法律などにおいても頻繁に見られることなのですが、上記の男性のように、一人の人間の心の中においても同じように該当するものであると私は考えています。 

 上記の男性は、上司の前で緊張してしまうというルールを有していました。このルールは彼には意識されていました。同時に、叱責されることで自分の罪が帳消しにされたかのような解放感を覚えるというルールを有していましたが、これは彼にはあまり意識されていませんでした。苦痛を伴うルールと快を伴うルールとが併存しているわけです。一方は意識化されていて、他方は無意識でした。個人のルールにはそうしたこともあるのです。そして、ここでは一方を変えると他方を失うという関係が見られるので、彼はなかなか自分のルールを変えることができないでいたのです。 

 この男性の事例に関しては、いつか機会があれば記述してみたいと思うのですが、今はそれ以上触れないでおきます。ここではルールは他のルールと絡み合っており、一つのルールに変化が生じることは広い範囲での変化が求められるようになるということを述べました。 

 

(149―3)異質化の体験は動揺をもたらす 

 人は自分のすべてを常に意識化していることはなく、時には無反省に何かをしてしまったということも経験するかと思います。人は自分が有しているルールとかパターン、傾向とかクセのようなものに自分でもなかなか気づかないものであります。 

 もし、それが自我にとって親和性を帯びていることであるならば、当人にとってはそのようにするのが自然なことであり、当たり前のことであるかのように体験されているでしょうから、特にそれを意識することさえないかもしれません。 

 これは逆説的でもありますが、それらが異質化されて、自我にとって違和的になって初めて、人は自分がどういう傾向を有してきたのか、どのようなルールに従ってきたのかに気づくものです。私はそのように考えています。 

 そこで、もし、ある人の心の中で、それまで親和性を有していた何かが違和的に体験されるようになったとします。恐らく、その人は自分自身に違和感を覚えることでしょう。それは混乱した気持ちであったり、行き詰った感じであったり、あるいは何かモヤモヤした感じなどとして体験されたりするでしょう。どのような体験になるかということは、人それぞれ異なるものだと私は思うのですが、何らかの違和感を覚えるような体験はするでしょう。 

 そのような状態にある時、そのような体験をしている時、多かれ少なかれ、何らかの動揺をその人は体験しているものであります。だから、当人にとっては、何か苦しいこととして体験されていて、苦しい感じがしているのに、それが何だか分からないという状況に置かれてしまうのです。 

 そのような体験をしている時、それが何なのか、どうしてそうなっているのかといった事柄は当人にも理解できていないことの方が多いのです。カウンセリングの過程において、クライアントがそのような体験をされることに私も頻繁に遭遇するのです。 

 このような、自分の中で何かよく分からないけれど、何かおかしなことが生じているという感覚は、脆弱な人によっては、根底から揺さぶられるような体験となることもあり、非常な危機感として体験してしまう人もおられるのです。 

 こうした体験は苦しみを伴うとは言え、そのクライアントの変容のプロセスがすでに始まっているということをも示しているのです。そこで私たちはその人がなぜそのような状態になったのかを、それが生じている背景を話し合うことになります。 

 多くの場合、このような動揺は、クライアントの自我において何かが異質化し始め、それに代わる新しい何かがまだ生じていないか、生じていてもまだ自我に同化されていないという状況であることが理解できるのです。従って、このような動揺、不安定感の体験というのは、一時的であることが普通なのです。 

 ここで強調しておきたいことは、自分に何が生じているかを理解できるという体験は、動揺の渦中にあるクライアントをものすごく救うということです。私もそれを現実に体験したことがあるので、よく分かるのです。クライアントの内面では自分でもよく理解できない事柄が生じているのですが、それが話し合われ、少しずつ理解されていくにつれて、クライアントは再び安定を取り戻して行かれるのです。 

 さて、ここまでのことを少しまとめておきます。自我親和性を有していたルールや傾向が異質性を帯びてくると、その人の中で違和感が生じ、それは時に激しい動揺をもたらしてしまうこともあります。そのような違和感や動揺は、当人が自分に何が生じているのかを理解できるに従って解消されていくものなのです。肝心なことは、変容の過程にはそのような苦しい段階を経験することもあるということであり、それは次の段階に進めば必ず消失していくものなのです。 

 

次項へ続く 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

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