<テーマ147>否定―肯定の統合と彼岸 

 

(147―1)否定と肯定の統合 

 前項で述べたことは、否定と肯定は必ずその両方が含まれているということでした。私たちが何かを否定するときには、必ず他の何かが肯定されているということであり、何かを肯定するためには他の何かが否定されなければならないということでした。 

 そこからもう一歩進めると、私たちの変容とか成長という現象は、常に古い何かが否定され、新しい何かが肯定されることによって成り立つもの考えることができます。否定されたものはそのまま背後に追いやられるのかと言いますと、決してそうではありません。肯定されているものと同時に否定されているものの双方が見えて、初めて私たちにはその両者を統合する道が開けるということなのです。本項ではその点について私の考えているところを示そうと思います。 

 まず、何かが否定されている時には他の何かが肯定されているということ、またその逆の場合も含めて、もう少し例を通して見ておくことにします。 

 一人のクライアントとのカウンセリングにおいて、この方に「否定」がどのように現れ且つ感じられてきたかを見ていきましょう。このクライアントは30代の女性でしたが、人生に行き詰まりを感じてカウンセリングを受けに来られたのでした。 

 

(147―2)女性クライアントの事例 

 この30代の女性クライアントの詳細を述べることは控えましょう。彼女はとても不幸な経験を積んでいます。そして、その不幸に対して、彼女自身の目は開かれていませんでした。つまり、彼女は自分が不幸を経験しているということに無自覚なのでした。 

 決して幸福ではないのに、自分が不幸であるということが見えていないということは、要するに、彼女はその時その時の安楽やその場限りの愉悦だけで生きてきたということなのです。 

 カウンセリングを継続していくうちに、彼女は自分がいかに瞬間的なものにしがみついてきたか、刹那的な生き方をしてきたかが見えてくるようになりました。彼女は、深い後悔の念に駆られ、そのやり場のない怒りを私に向けてくるようになりました。 

 私は彼女の将来に目を向けてもらうような話し合いを展開していきます。彼女はそれがとても辛いと話すのです。その理由も分かるのです。彼女は今では自分のこれまでの生き方を後悔しているのです。とても、将来は思い描けないし、思い描いていた将来が実現しそうにないということが実感されてしまうからです。 

 そんな時、彼女は「先生は私のことを否定している」と言って憤慨されました。私はあなたのどこが否定されているように感じるのかを尋ねました。彼女は、自分の過去が否定されていると答えたのでした。私が彼女の過去を否定していると彼女は述べるのでした。 

 彼女の語っていることは一面においては正しい。でも、私はあからさまに彼女の過去を否定しているわけではないのです。彼女がそれを否定したいのです。それを彼女は自分がそれをしているのではなく、私によってされているというように体験したいのです。詳細を述べないので伝わりにくいかもしれませんが、彼女が過去を否定していると私に対して主張する時、それは同時に彼女の願望でもあるということが感じられたのでした。 

 さて、私は彼女に対してその過去を否定するというような言葉は現実には発していないのです。でも、心の内ではそれがあったということを認めます。つまり、彼女の過去の生き方は間違ったものであり、いわば、否定されなければならないものだという考えがあったのです。 

 私はその意味では確かに彼女の過去を否定しているのです。でも、この否定は、彼女のこれからの生き方を肯定するものなのです。彼女のこれからの生き方に対して肯定的であるために、彼女の過去の生き方に対しては否定的な態度を取らざるを得ないのです。 

 望ましいものを生み出すために、それを肯定するためには、望ましくないものは否定され、放棄されなければならないのです。 

 彼女は、例えば、同年代の多くの女性たちが手に入れていることのわずかしか手にしていないし、わずかしか経験していないのでした。それが彼女の過去の生き方なのです。自分自身を狭窄する生き方をしていたと表現してもいいでしょう。彼女がそういう狭い世界で生きてきたことは、彼女の人格を貧困化してきたのです。彼女が自分が不幸だということに無自覚だったというのは、彼女の生きる狭い世界でおいてのみ、わずかの幸運的な出来事や一時的な快楽が経験できており、それが彼女の世界のすべてであるかのように感じられていたからなのです。 

 この生き方は、私の見解では、否定されて然るべきなのです。たとえ彼女がそういう生き方しかできなかったという背景があるとしても、どこかでその生は改められる必要があるのです。 

 

(147―3)否定を受け入れる 

 カウンセリングを開始して、10か月ほど経過した頃に、彼女はそのような体験をするようになったのです。その後、どのように展開していったかを述べる前に、ここまでの経過に関して、いくつか補足的な事柄を述べておくことにします。 

 開始してから、10か月の間にはさまざまな展開がありました。その過程において、先述の「先生は私の過去を否定している」という言葉が出てくるのです。詳細を述べなかったので、お読みいただいているあなたからすると、彼女がいきなりそういう発言をしたかのような印象を受けてしまうかもしれませんが、決してそういうわけではないのです。 

 この間、彼女は自分のこれまでを振り返ってきました。外側に対しても、彼女はいくつかのことに挑んだり、開始したりしています。それらを話し合う過程で、彼女は自分が自分の思っているような人間ではないこと、気づいていなかったけれど本当に幸福ではなかったこと、自分の生き方が間違っていたのではないかといった不安が生じ、少しずつそれらが見えてくるようになったのです。このことは彼女自身にとって衝撃的な発見だったのではないかと私は察します。 

 彼女は自分の過去を否定したいのだと私は感じていました。これをお読みのあなたにはそこがよく理解できないと感じられるかもしれません。そこで、なぜ、私がそう感じたのかということですが、受け入れがたいものを何とか受け入れようとする際に、人間がどういう方法を取るかという理解があれば、このことはよく理解できるのです。 

 これを単純化して言うと、人が自分の何かを否定したい時、その否定する事柄があまりにも大きいと感じられる場合、あるいは否定することがとても苦しいというような場合、自ら進んでそれを否定することが難しいのです。そこで、一段落おいて、あの人がそれを否定するという形にするのです。こうして、自分が否定しているということは棚上げされてはいるのですが、その人の中にそれを否定しているという感情や事実は持ち込まれることになるのです。それはやがてその人自身のものになっていくものなのです。 

 人はしばしばそのようにして自分の受け入れがたい事柄を受け入れていくのです。彼女もそうだったと思うのです。私は彼女の過去を否定するような言葉をはっきり述べているわけではありません。「そんな生き方はダメだ」とか「すぐに止めなさい」などとは私は言っていないのです。私は否定していないのに、彼女は私が否定していると述べているのです。それで私は上記の仮説を見立てていたのです。彼女は自分の過去を否定したくなっている、それが困難で受け入れがたいので、私によって否定されているという形で、一時的にせよ、折り合いを付けようとしているという仮説です。 

 もう一つ疑問が浮かぶかもしれません。それは私がこの女性を十分に受容していないのではないかというものです。先取りして述べれば、その人に受容されているから、人はその人とともに自分の見たくないものを見ることができるようになるのです。 

 私は彼女の人柄や在り方をそのまま受容しています。この受容に支えられているから、彼女は既に10か月ほど通い続けてきたのです。もし、受容がなければもっと早い段階で彼女はカウンセリングから去って行ったでしょう。 

 <テーマ145>で述べたことですが、受容は必ずしも許容を意味するのではないのです。私は確かに彼女のこれまでの生き方は改められる必要があると感じていました。カウンセリングもその目的に沿ってなされていました。何か改善すべき点がその人にあるからこそ、その人は壁にぶち当たっているのです。私がその人の抱える「問題点」を見て、把握しておくことは私の職業倫理だと私は考えています。そのことは、つまり、彼女のどこが間違っているかという問題の把握と、彼女を受容するということとの区別であります。間違った何かを抱えている彼女が、カウンセリングの場面では、確かに受容されてきたのです。 

 彼女は現実には受容されることのない生活を続けてきました。それが彼女の過去の生活だったのです。彼女は自分の世界や自分自身を縮小することで生きながらえてきて、それから得られるわずかのことに満足してきただけなのでした。それが自分の世界のすべてだと信じて、そこに疑問を抱かずに彼女は生きていたのでした。 

私が彼女を受容しないとすれば、彼女はその生き方を続けるでしょう。受容されなかったということが、彼女の過去の生き方の形成に一役買っているからであります。つまり、彼女が同じ経験をし続けるなら、彼女は同じ生き方を続けていただろうということです。 

 でも、彼女が過去の生き方を否定したくなっているとすれば、彼女は過去に経験できなかったことを経験するようになっていたはずなのです。それが自我異質的に体験されるようになったので、否定したくなっているのです。 

  

(147-4)否定から肯定的な何かが生まれる 

 彼女の事例に戻りましょう。ここからしばらくは簡略化して述べることにします。 

 彼女は自分の過去の生き方を後悔しています。それが表現されます。「あの時、もっとこうだったら良かった」とか「こうしていたらもっと違っていたのに」とか、そういう話が増えてきます。私はその後悔をもっと話すように彼女を促します。 

 その後の3~4か月間は、こういう後悔の話に彼女は従事するのですが、その中において、彼女の表現に違いが生まれてきます。つまり、それは「あの時、もっとこうだったら良かったのに」といった後悔の表現は、「あの時、もっとこういうことがしたかったのに」という後悔の表現に変わってきたのです。つまり、ただの後悔ではなく、彼女の願望がそこに入ってくるようになったのです。 

 さらにカウンセリングが継続していって、彼女は焦燥感に駆られるようになりました。それは「君はまだあれもしていない、これもしていないではないか」という声を聴くような思いだったそうです。否定と肯定という観点に立てば、これは彼女の中に肯定的な何かが生まれてきているということを意味します。 

 こういう自分を駆り立てるような声、使命感を呼び覚ますような声、それ生命感情だと私は考えています。心の躍動性はそういう形で当人に示されるものだと私は体験しています。 

 彼女はそうして、自分が何をすべきなのかを考えるようになりました。それを実際にやっていくには困難なことがいくつもありましたが、彼女はこれからの生き方に対して既に肯定的になっていると捉えることができるでしょう。 

 もう少し、丁寧に表現するなら、彼女は過去の生き方を否定しているのです。将来の生き方に対して肯定的になることがこの時点ではできていなくても、少なくとも、過去の生き方を否定している自分が肯定されているのだと私は思いました。なぜなら、過去の生き方が否定され、その否定する自分も否定されているとすれば(これは<テーマ146―6>で示した背理状況です)、彼女は身動きできなくなって、何も行為できなくなっていたでしょうし、あのような駆り立てる声を聴くこともなかっただろうと思われるからなのです。 

 

(147―5)肯定―否定を超えて 

 彼女はやがて新しい生活を始めるようになりました。分からないことだらけで手探りで彼女はそれを始めたのです。新生活を始めるようになって、彼女はカウンセリングに来る時間的な余裕が乏しくなったと言います。その後、しばらく継続した後、彼女はカウンセリングを終えられたのでした。 

 再び否定と肯定という観点でこのことを考えてみましょう。 

 彼女は自分の過去を否定しています。もし、これが否定だけであるならば、彼女は自分の過去をなかったことにしようと努めるでしょう。でも、彼女はそうはしていません。彼女は過去を否定しているのですが、その過去を決して捨ててはいなくてつまり否認とか乖離をしているのではなくて)、それを糧にして生きようとしています。ここには、過去に対して否定以外の何かがあるということが窺われるのです。何かが肯定されていると考えるのが妥当だと思うのです。 

 過去を否定し、その否定が見えており、否定していることが肯定されているから、彼女はそれを否定することができるのだと私は思います。過去を否定することによって、彼女の生活には肯定的な何かが新しく付加される余地が生まれています。 

 否定されてきたものと、これから肯定されていくものと、その両方が見えているから、人はその両方を受け入れることができるのだと私は考えています。両方が見えると統合的になるというのはそういう意味なのです。 

 さて、彼女とのカウンセリングはそこで終わりになったのですが、もし、彼女が自分の生を生きていくことができていれば、次のような段階に進んでいるだろうと思います。 

 過去の否定と現在と将来の肯定という二分法で見てきましたが、もはやそのような二分法で彼女は自分の人生を捉えていないだろうということです。 

 現在の力が強くなればなるほど、人は過去からの影響力に囚われなくなるものです。そうなると、過去のことは過去に位置付けられていくのです。そうして、単にそこに在るというだけの過去は、その人に影響を及ぼすことがなく、肯定も否定もなくなるのです。過去はその人の内において在り、現在へと統合されているのですが、その過去によって苦しむことがなくなっていくのです。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

PAGE TOP