<テーマ145> 受容と許容 

 

(145―1)あるカウンセラーの間違い 

 私がカウンセリングの勉強を始めた頃、次のような話を聞くことが多かったのです。 

親が子供のことでカウンセラーを訪れます。その子供は当時で言う不良です。カウンセラーは来談した親に、「子供さんを受容してください」と伝えます。それ以来、その親は我が子を受容しなければならない(この感覚自体おかしいものなのですが)と、常に意識して子供と接するようになりました。 

ある時、子供がバイクを買ってくれと親にせがんできます。親は戸惑います。でも、カウンセラーの先生から「子供を受容するように」と言われているから、親は子供を受容する意味で、子供にバイクを買ってやります。 

バイクを買ってもらった子供は、その後もさらにいろんなものを要求してきます。親はそれを満たしてやります。それもこれも、子供を受容しなさいというカウンセラーの教えに従っているためであります。結局、この親子の関係はさらに悪化し、子供は何一つ改善しないのでした。 

 当時、私はこうした話をちょくちょく耳にしたものでした。このカウンセラーは間違ったことを言っていたわけではありません。ただ、受容ということがどういうことなのかを、きちんと説明していなかった点に問題があるのです。 

 受容、つまり相手を受け入れるということは、言葉で言う分には自明のことのように思われますが、このことをきちんと理解しようとすると、それだけで何冊もの本が書けるくらいのテーマなのです。一体、相手を受容するということ、また、自分が受容されるということはどういうことなのでしょうか。 

 

(145―2)受容と許容の混同 

 上述の親がしたような間違いを私たちはしてしまうものだと思います。私にも苦い経験がいくつもあります。また、同業者からも同じような間違いの話を耳にすることもあります。 

この間違いとは、相手の要求を満たしてあげるということと、相手を受容するということの混同によるものなのであります。 

 相手が何かを要求してきます。こちらはそれに対して「ノー」と言います。それは確かに相手の要求を拒否ないしは否定したことになります。ここで否定されたのは相手の要求の内容なのであります。相手の人すべてが否定されたわけではないのです。 

つまり、相手の要求を断りながらも、相手を受容するということが、本当は可能なのです。相手の要求を満たしてあげるということと、相手を受容するということとが別の次元の体験であるからそれが可能なのです。従って、反対に、相手の要求を満たしてあげながら、同時に相手の存在を否定するということも可能なのであります。いかに多くの親や教師が知らず知らずのうちにこれをしているかを見ることができれば、私がここで述べていることに違和感なく接することができるかと思います。 

 

(145―3)許容されないことへの傷つき 

 上記のことをもう少しだけ丁寧に見ていきましょう。 

相手が私に何か要求を出してきます。私はそれができないと答えたとします。これは相手の要求内容を私は否定したということでしかないのです。それ以上でも以下でもないのです。同時に、私はそれができない、それをしたくないという形で、私は私自身を自己受容しているのでもありますが、ここではそれを取り上げないでおきましょう。一方、相手がそういう要求を出さざるを得ないという感情を私が理解できているとすれば、私はそれを受容しているのであります。そこで私は相手を受容していることになり、相手を否定したとは言えないのです。 

 クライアントはしばしば自分が否定されたと経験することがあります。クライアントの過去の体験や日常の生活の中で、あるいはカウンセラーとの間でそういうことを経験することがあります。 

ところで、そうした体験をクライアントと丁寧に見ていと、それは多くの場合、クライアントの要求が満たされなかったという状況であったりします。その要求が許容されなかったということなのです。 

 クライアントのどのような要求がどういう人に出されたのかという点も本当は考慮しなければならないのですが、それは一旦脇へ置いておきましょう。 

自分の要求が通らない、言い換えれば、物事が自分の思い通りにならないという状況に置かれた時、人が経験する感情は「傷つき」であります。クライアントはそれで傷ついているのです。 

そして、傷つけた相手を攻撃したくなる人も中にはおられます。相手に対しての期待、つまり自分のこの要求を満たしてくれそうだという期待が大きければ大きいほど、この傷つきや失望の感情も大きくなることでしょうし、それが、後々まで怨恨としてその人の中に留まり続けることもあるでしょう。それでも、多くの場合、その根本となった出来事を見ていくと、その人が否定されたのではなく、その人の出した要求が拒まれただけだったと理解されてくることが案外多いのであります。 

 繰り返して述べておきますが、ここで問題になっているのは、受容と許容との混同であります。この混同はカウンセラーがしている場合もあれば、クライアントがしている場合もあり、双方が同時にしている場合もあるのです。ここではカウンセラーとクライアント間で生じる混同を述べていますが、こうした混同はそれ以外の人間関係においても生じる類のものであります。 

 

(145―4)本当に問題にすべきは何か 

 ところで、私たちの日常生活においては、自分の期待や要求がそのまま通るということが一体どれくらい経験されるものでしょうか。私の個人的な経験では、時には自分の期待通りに物事が運ぶこともあるけれど、大半は期待通りには運ばないものです。部分的にでも期待通りに運べばまだいい方で、まったくそうならない場合も多いのです。自分の思い通りに事が運ばなかった場合、確かに私はがっかりするのですが、それでも、「困ったな、では、どうしようか」と考えるのです。これは私の個人的な体験なので、人によって違うかもしれません。 

 肝心な点は、私たちは自分の期待通りに行かないということの方をはるかに多く経験しているということであり、問題となるのは期待通りに行かなかった時に経験する感情の強度であります。自分の要求が通らなかった時に経験する感情がとても強い人たちもおられます。先述のように、相手や周囲に対しての期待が大きかった場合には特にそうなるのです。 

 そういう人にとっては、ただ一つ自分の要求が通らなかったというだけのことであっても、それがたいへんな脅威と感じられるのではないかと察します。自分の人格や存在のすべてが否定され、拒絶されてしまったかのように体験してしまうのではないかと思います。途端に自分が無意味で無価値な人間であるかのように自分自身を体験してしまうこともあるでしょう。 

 その人が望んでいながら実現できなかったという事態は、とても苦しいものだということが私にも分かります。どうしても実現したいと強く望んでいるほど、この事態がもたらす苦痛は大きいでしょう。 

この場合、その人の要望がとても大きいもので、何人であれ満たすことのできない類の願望であったかもしれないし、要望を出した相手にそれだけの能力がない場合も考えられるでしょう。そこには相手側の事情も当然あることでしょう。いずれにしても、満たしてくれなかった相手や状況が問題なのではなく、その人の心がこの事態をどう処理するかということが本当に問題となることなのだと私は考えています。 

 

(145―5)受容と許容の同一視 

 本項の本題に戻りましょう。私たちは受容と許容との混同を見てきました。本項では、受容とは自分の存在などが他者から受け入れてもらえているという体験であり、許容とは自分の要望が他者によって認可されるか満たされるかするという体験と仮定しています。 

 では、なぜ受容と許容とが混同されてしまうのでしょう。私の考えでは、私たちの幼児性にその源があるようです。 

 小さな子供は、自分の要求を満たしてくれる人を愛するのです。愛情とか受容ということと、自分の要求ということとが密接につながっているわけであります。従って、「私の要求が満たされる」がそのまま「私は愛されている」という感情体験となるのです。 

 乳児が空腹を感じてワーッと泣きます。これは周囲に自分の要求を出しているわけです。その乳児が今の自分にできる限りのやり方で要求を出しているのです。これが即座に満たされることもあれば、延期されてしまうこともあるでしょう。もし、ここで即座にそれが満たされない場合、乳児は「自分は置き去りにされている」とか「否定された」とか「僕なんてどうでもいいんだ」といった感情に襲われるでしょう。もちろん、乳児はそのようなことを言語的には表現しません。非言語的、ないしは前言語的にそれを表現するのです。 

 いずれにして、自分の要求が即座に満たされないということと、見捨てられたとか、否定されたとかいった感情とが結びつくことも知られているのです。 

 もし、乳児が成長して、親子関係がそれなりに良好であれば、その子は自分の要求が満たされない場合もあるということを知るでしょうし、時に満足は延期されなければならないものだということも知るでしょう。そして、仮に親が自分の要求を拒んだとしても、それで自分そのものが否定されたとか、自分が無くなってしまったという体験はしなくなるでしょう。その子の基盤というか、核のような部分がしっかりすればするほど、その子は要求が満たされない状況、自分の思い通りにならない状況に対処していけるようになるのです。 

 その辺りのことは、項を改めて考察していくことにしますが、そのような苦悩を抱えているクライアントと、カウンセリングを通してそれが達成していけるように、一緒に作業を重ねていくのです。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

PAGE TOP